福井の山と文学(デジタル展示)

開催期間 | 2020年8月10日(月)~ |
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会場 | 福井県ふるさと文学館 |
内容 | 8月10日は「山の日」です。山の日にちなみ、福井の山と文学について、デジタルで紹介します! |
展示資料 | 山の写真や作品、貴重資料の画像など |
映像「福井の山と文学」(約15分) 2021年2月13日より公開!
愛する福井の山々(増永迪男氏インタビュー)
愛する福井の山々(増永迪男氏インタビュー)
福井県は荒島岳など白山に連なる千メートルを超える山々、青葉山や多田ヶ岳など海原のように続く若狭の山々があります。そして、その山とともに、物語や詩があり、山が育んだ作家がいます。
石川県大聖寺に生まれ、福井中学校に在学した深田久弥、敦賀出身の評論家桑原武夫などが登山家として作家として多くの作品を残しています。
8月10日の山の日にちなみ、現役で活躍している福井市出身の山岳エッセイスト増永迪男を皮切りに、福井の山と文学について紹介します。
🏔 増永 迪男(ますながみちお)
〇 経 歴 〇
1933年、福井県足羽郡木田村(現・福井市)に生まれる。福井中学校、乾徳高等学校、広島大学工学部を卒業。中学時代より登山を始め、1967年には広島大学ヒンズークシュ遠征隊として、アフガニスタンヤジュン峰(6024m)初登頂を成功に導いた。また、長年、福井の山々と向き合い、『霧の谷』、『福井の山150』、『夜明けの霧の山』など多くのエッセイを発表している。

乾徳高校山岳部時代
大仏寺山(福井県)三角点にて 左増永迪男

1955年 天応烏帽子岩山クロナメラ(広島県)にて

1958年ごろ 白山頂上にて 右増永迪男

1967年 右より増永迪男、アフガニスタンダシテレワートの村長
〇 資料紹介 〇

中学生の時よりつけている登山日記「堆石」

1947年・1948年(中学二・三年生)の日記
1948年は、福井地震の年で登山はできなかった

2020年の登山の記録

増永迪男『霧の谷』(1975年、北陸通信社)
荒島岳や能郷白山などについて記したエッセイを収録
〇 インタビュー(2020年7月29日収録)より〇
〈ふるさとの山〉
私は福井市の南のほうで生まれました。そして、学校へ行く時には田んぼの中の道を通りました。すると、越前平野の東の方に大きな山がずらっと並んでいるのが見えますね。ああいう山を大きな山で岩山だと思っていたのですが、そのうちに一つ一つの山に名前があって、色んな歴史があって、山に住む人々がいらっしゃることがわかってきました。それが親しみとなって、私の人間をつくる源みたいになったと思います。これが私のふるさとの山との関係です。
〈福井市の山〉
福井市というのは周辺に大きな山が見える実に良い環境だなと思っています。まず、浄法寺山とか吉野ヶ岳といった山があって、その向こうに九頭竜川の谷の果てのほうに、白山が大きく広がって見えますね。あれは福井市の大きな特徴で、福井県の人々の心に山といえば、白山という思いを植え付けているのではないかと思います。
〇 エッセイ紹介 〇
〈願教寺山〉

撮影:増永迪男
朝の霧は今では積雲となっていて、まわりでは夏の光が跳びはねている。そのなかでササを分けながら、私は、まったくひとの気配を感じさせない眺めを楽しんでいたのだったが、同時に,私という人間が歩くことで、山の自然に、ひとつの混乱を残したことも事実だろう。たとえスニーカーで歩いていたとしても。
早朝に谷川歩きをはじめてから七時間あとに、まったく突然私たちは泉のわく草地に出た。ふりかえると岐阜福井の県境尾根のかなたに、今朝登った願教寺山が遠く見えている。
増永迪男「山上の水辺で」(『夜明けの霧の山』2007年、福井新聞社)より
〈屏風山(大野市)〉

撮影:増永迪男
やがてカモシカは急な雪の壁をくだり、川の岸に出ようとする。このあたりの動きは登山中のひとの動きにそっくりだった。すべての動作はじれったくなるほど慎重で冒険はしない。
急な雪の壁から解放されて安全な川の岸に降り立つと、今度は見上げる角度でふたたび私をみつめた。
増永迪男「カモシカの記憶」(『夜明けの霧の山』2007年、福井新聞社)より
〈青葉山(高浜町)〉

撮影:増永迪男
あおばさんは若狭一番の名山である。若狭のひとが、
「青葉さんは…」
といってこの山について語り始めると、その独特のイントネーションのなかに、山への親しみと敬意の心がみちあふれていることに気づかされる。
それは青葉山の均整のとれた姿に由来していることは、まず間違いのないところだろう。高浜町の海辺から眺める姿がよい。左右からすらりとのび上がった山稜が、天空の一点で合致して、まさに山の代表といった形である。
増永迪男「青葉山」(『福井の山150』1989年、ナカニシヤ出版)より