越前奇談怪談集(1)柴田勝家の亡霊
マット・マイヤー氏のイラストと現代語訳
柴田勝家の居城・北庄城は福井城と同じではない。今の鳩の門の内、杉田氏の邸宅あたりにあったという。
毎年、勝家が戦死した四月二十四日には、九十九橋の辺りや毛矢町の辺りを勝家が馬に乗って駆けたという。そのため、祥月命日には誰もがこれを恐れて、午後六時頃から戸を閉め切り、夜に出歩かなかったという根拠のない説がある。
杉田の屋敷内には小さな祠があり、これは勝家を祭ったものである。毎年の祥月命日には小祭をおこなって供物などをした。この石の祠は、粕谷氏のどの代かの人物が勧請したものといい、また昔からあったともいう。
毎年、勝家が戦死した四月二十四日には、九十九橋の辺りや毛矢町の辺りを勝家が馬に乗って駆けたという。そのため、祥月命日には誰もがこれを恐れて、午後六時頃から戸を閉め切り、夜に出歩かなかったという根拠のない説がある。
杉田の屋敷内には小さな祠があり、これは勝家を祭ったものである。毎年の祥月命日には小祭をおこなって供物などをした。この石の祠は、粕谷氏のどの代かの人物が勧請したものといい、また昔からあったともいう。
資料原本と翻刻文
一 柴田勝家之居城は福井ノ城ニハあらす、今ノ鳩ノ門内杉田氏ノ邸宅辺なりといふ、毎年勝家戦没ノ日ニハ、大橋(九十九はし)辺、毛矢辺を勝家か馬ニ乗りて馳駆スルヨシ、よつて祥月日ニハ誰レも恐れ憚りて、暮六時頃より戸を〆テ、夜行をなさすと云附会之説あり、杉田の屋敷中ニ小祠アリ、勝家を祭りたるもの也、毎年祥月日ニハ小祭ありて、供物なとする、此石小祠は粕谷之代之中ニ而勧請するとも云ひ、又昔より此祠あるとも云ふ、(以下略)