怪異が生じる福井城の御隅櫓(おすみやぐら)
令和5年6月定例県議会で成立した補正予算に、「福井城坤櫓等の復元整備」に関する予算が盛り込まれました。「坤櫓」(ひつじさる・やぐら)は、福井城にあった10の櫓のうちの1つで、本丸の南西にあった三重の櫓です。
近年、福井城址については、平成20年に本丸西側の内堀に架かる「御廊下橋」、同30年には御廊下橋につながる「山里口御門」の復元整備が完了しています。平成25年に県と福井市が策定した「県都デザイン戦略」では、城址とその西側の福井市中央公園などを一体化した「福井城址公園」の整備が掲げられていますが、今回の坤櫓と土塀の復元整備も、この方針に沿ったものといえます。
近年、福井城址については、平成20年に本丸西側の内堀に架かる「御廊下橋」、同30年には御廊下橋につながる「山里口御門」の復元整備が完了しています。平成25年に県と福井市が策定した「県都デザイン戦略」では、城址とその西側の福井市中央公園などを一体化した「福井城址公園」の整備が掲げられていますが、今回の坤櫓と土塀の復元整備も、この方針に沿ったものといえます。
福井城本丸の西側を描いた図(画面の中ほどに御廊下橋・右端に坤櫓が描かれる)
「福井城旧景」福井県立図書館蔵 T0001-00004
さて、福井城址公園の中核をなす中央公園は、福井城の西二の丸と西三の丸およびそれらを囲む堀の跡地に位置しています。このうち西三の丸は藩主の住居である「御座所」があった場所で、平成30年の再整備事業では「ビジターセンター御座所」と呼ばれる展示・休憩施設も新設されました。
この御座所の北西隅の一角に「御隅櫓(御角櫓)」(おすみ・やぐら)がありました。現在の福井神社境内および福井市順化小学校のグラウンドあたりに該当しますが、今では一部の石垣が残るだけの状態となっており、当時の面影はほとんど残されていません。
この御座所の北西隅の一角に「御隅櫓(御角櫓)」(おすみ・やぐら)がありました。現在の福井神社境内および福井市順化小学校のグラウンドあたりに該当しますが、今では一部の石垣が残るだけの状態となっており、当時の面影はほとんど残されていません。
福井城西三の丸にあった御座所(画面左上隅に「角御櫓」と書かれた黄色い四角形が御隅櫓)
「御座所御絵図」松平文庫・当館保管 A0143-21379
柳御門内から御隅櫓を描いた図(画面奥、堀の向こう側に茶色の屋根で描かれるのが御隅櫓)
「福井城旧景」福井県立図書館蔵 T0001-00004
幕末の福井藩主・松平春嶽は随筆『真雪草紙』のなかで、この御隅櫓にまつわる2つの怪談を記しています。1つ目は、春嶽が御隅櫓に上がって火事の見分をした際、甲羅の長さが約2.7m、幅が約1.8m、顔だけで約30cmもある大きなスッポンが眼下の堀に浮かび上がってきたのを見たと述べています。「真に見たるが故にここに記せり」と念押ししているのが興味深いところです。2つ目の話は、春嶽の三代前の藩主の子・松平楷五郎の家来がこの櫓に上がった際、約3.6mもの大きな鯉が堀を泳いでいるのを見て、恐れおののいて逃げ帰ってきたというものです。どうやら、この御隅櫓に上がった時にだけ、堀に住む巨大生物を見ることができたようなのです。
松平春嶽『真雪草紙』より「角櫓下タ堀ノ大鼈ノ事」「角櫓下堀大鯉ノ事」
「正二位慶永公御著述 真雪草紙ほか」松平文庫・当館保管 A0143-02632
御隅櫓の怪異を伝えたのは春嶽だけではありません。
明治初年に福井藩のお雇い外国人として藩校・明新館に着任したW・E・グリフィスも、「苔むして通常は立ち入りを禁じられている城の一角」すなわち御隅櫓にまつわる怪談を「大名政府」(A Daimio's Government)という文章の中に記しています。グリフィスは、この御隅櫓には「イッパクの亡霊」が棲むと教わります。松平楷五郎が、夜分に家来を送り込んで見張らせたところ、果たして櫓から美しい女性が現れました。ただし、その女性の背中は醜く、ぬるぬるとした怪物のものであったそうです。女の霊は「自分の姿を見たことを誰かに話せば、お前は間もなく死ぬだろう」と言い残しましたが、家来は楷五郎にこのことを話してしまったため、数週間後に亡くなったといいます。グリフィスはこの霊を「the ghost of Ippaku」と記していますが、「一伯」(いっぱく)とは二代藩主松平忠直の号であり、実際には忠直の愛妾「一国」(いっこく)の霊として伝えられていたものを、グリフィスが取り違えたものでしょう。
ほかの櫓に関する怪談は確認できず、御隅櫓のものだけが伝わるのはなぜでしょうか。春嶽は先の『真雪草紙』のなかで、御隅櫓について次のように述べています。
明治初年に福井藩のお雇い外国人として藩校・明新館に着任したW・E・グリフィスも、「苔むして通常は立ち入りを禁じられている城の一角」すなわち御隅櫓にまつわる怪談を「大名政府」(A Daimio's Government)という文章の中に記しています。グリフィスは、この御隅櫓には「イッパクの亡霊」が棲むと教わります。松平楷五郎が、夜分に家来を送り込んで見張らせたところ、果たして櫓から美しい女性が現れました。ただし、その女性の背中は醜く、ぬるぬるとした怪物のものであったそうです。女の霊は「自分の姿を見たことを誰かに話せば、お前は間もなく死ぬだろう」と言い残しましたが、家来は楷五郎にこのことを話してしまったため、数週間後に亡くなったといいます。グリフィスはこの霊を「the ghost of Ippaku」と記していますが、「一伯」(いっぱく)とは二代藩主松平忠直の号であり、実際には忠直の愛妾「一国」(いっこく)の霊として伝えられていたものを、グリフィスが取り違えたものでしょう。
ほかの櫓に関する怪談は確認できず、御隅櫓のものだけが伝わるのはなぜでしょうか。春嶽は先の『真雪草紙』のなかで、御隅櫓について次のように述べています。
松平春嶽『真雪草紙』より「角ノ御櫓ノ事」
「正二位慶永公御著述 真雪草紙ほか」松平文庫・当館保管 A0143-02632
二ノ丸*御座所御住居の御庭の後ろニ角の櫓あり。屋根はコケラブキにして、至而麁末(そまつ)なり。大安公御代、万治頃と覚候。御本丸并諸櫓不残焼失せしか、幸ニ此角櫓斗ハ焼残りたり。此櫓斗り浄光公御代御造築なり。(以下略)
大安公(松平光通)の時代、天守を含む本丸や櫓が残らず焼失した大火がありました。春嶽は万治頃(1658~61)と書いていますが、正しくは寛文9年(1669)の大火を指します。この大火では、御隅櫓だけが焼け残ったため、ここだけが浄光公(結城秀康)が福井城を築城した当時のままの状態で、屋根もこけら葺きの粗末なものだったといいます(ほかの櫓は瓦葺き)。
寛文9年大火の焼失状況を描いた絵図(御隅櫓の部分に「此櫓残」の紙が付されている)
「寛文九年福井城焼失之絵図」松平文庫・当館保管 A0143-21316
こうした古びた建物であり、なおかつ御座所内という一部の人だけが入ることを許されたエリアだったため**、御隅櫓はいわば城下の怪奇スポットとして人々に認識されていたのではないでしょうか。 再整備が進む福井城址西側エリアの歴史の一コマです。
長野 栄俊(2023年8月22日作成)
*春嶽自身が「福井城二ノ丸・三ノ丸の区別半全しがたし」と『真雪草紙』で述べるように、御座所を二の丸と述べる記事も見られますが、同一の場所を指しています。
**松平文庫「少傅日録抄」では、藩主が神社の祭礼行列を眺めたり、御膳を食べるために、御隅櫓に上がった記事が散見されます。また、松平文庫『真雪草紙』では、奥女中や小姓が御隅櫓に上がったとする記事も見られます。