「どうした秀康?-史料によって異なる逸話-」

はじめに 

 ここでは、松平文庫テーマ展44「どうする秀康-逸話でみる結城秀康-」で紹介した逸話の1つを、複数の史料を比較して深掘りしていきます。今回扱うのは、慶長4年(1599)9月、大坂において発生した徳川家康暗殺騒動です。

1. 慶長4年9月の家康暗殺騒動について

 まずは19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書『徳川実紀』1)に書かれている内容を紹介しましょう。
 家康は重陽の節句を祝うため、伏見から大坂城の豊臣秀頼のもとへ出かけました。大坂に入ると増田長盛と長束正家から、家康暗殺の謀略があることを告げられます。首謀者は浅野長政で、刺客は土方雄久と大野治長とのことです。家康はこれを受けて、ただちに重臣を集めて対応を協議しました。本多正信は「大坂城への入城を中止したほうがよい」と忠告しますが、井伊直政・榊原康政・本多忠勝らは「それでは怖気づいているように見えるので、心構えをして入城すべきだ」と進言しました。結局、家康は警戒しつつも予定通り大坂城に入り、秀頼と対面しました。宿泊所に戻ってからは伏見城から呼び寄せた軍勢で周囲を警固させ、結果的に何事も起こらず騒動は収まりました。
 このとき伏見城の留守を預かっていたのが、息子・結城秀康です。秀康は「この城は自分がいれば何の心配もいらない。番頭・物頭までもその持ち場を離れて、一刻も早く大坂に参上しなさい」と命令したようです。これを聞いた家康は、「自分より優れている」と大変喜んだということです。
 この逸話は、松平文庫の史料にも多く収録されていますが、史料によってその内容が少し異なるようです。ここでは4つの史料を例に、秀康がとった行動を比較していきます。

2. 結城秀康の対応-4つの史料を比較-

(1)「(御家譜)」(貞享元年(1684)成立)

 本史料は福井藩6代藩主である松平綱昌の代に編纂され、幕府に提出された家史の控えです。初代秀康・3代忠昌・4代光通の3代を扱っており、福井藩では初の複数代にわたる藩主の記録となります。暗殺騒動に関する記述は以下の通りです。
「(御家譜)」(松平文庫)
図1 「(御家譜)」(松平文庫)(⇒デジタルアーカイブ 画像

 これによると、家康は家臣の伊奈図書を通じて、秀康に対し「秀康自身は伏見城を守るとともに、急ぎ兵を大坂に派遣せよ」と命令しています(傍線部A)。秀康は迅速に対応し、10日未明には兵は大坂に到着したようです(B)。しかし、『徳川実紀』1)にあるような「家康が秀康の対応について大変喜んだ」という話は書かれていません。ちなみにこの「(御家譜)」以降、福井藩では多くの家史が編纂されますが2)、松平文庫に残る史料を見る限り、次の(2)以前に成立した家史ではほぼ同内容の記事が収録されています。

(2)「越前世譜」(寛政7年(1795)以降成立)

 本史料は、初代秀康から12代重富までを扱った家史です。成立年代は不明ですが、最終記事は寛政7年(1795)12月27日となっています。(1)と比べると全体的にかなり詳しく書かれています。暗殺騒動に関する記述は以下の通りです。
「越前世譜」(松平文庫) 
図2「越前世譜」(松平文庫)(⇒デジタルアーカイブ画像

 これによると、「10日未明に伏見から大坂に兵を派遣した」という記述は(1)と共通しています。しかしそのあとに、「手勢をもって伏見城本丸を警固し、自ら巡見した」ことや、「差配の次第を逐一記録して家康に報告した」ことも書かれています(C)。伏見城の留守を預かる秀康の立場や、その責任感が伝わってきます。
 さらに『徳川実紀』1)と同様に、秀康の行動や気配りに対する徳川家康の反応について書かれています。家康は「あっぱれ、秀康は父に勝るほどの力量である」と大変感心したようです(D)。
なお、明治40年代に成立した「家譜」(越葵文庫)にも、ほぼ同様の記事が見られます。

(3)「国事叢記」(弘化3年(1846)成立)

 本史料は、幕末の世譜掛・田川清介が藩の命によって編纂した藩史です3)。編年体の歴史書で、秀康が誕生した天正2年(1574)から書き起こし、明和7年(1770)までを扱っています。暗殺騒動に関する記述は以下の通りです。
「国事叢記」(松平文庫)
図3「国事叢記」(松平文庫)(⇒デジタルアーカイブ画像

内容は(2)に近いですが、異なる点は「秀康が手勢をもって“大坂城の”本丸を警固した」となっている点です(E)。伏見にいるはずの秀康が大坂城の本丸を警固するのは矛盾が生じますので、ここは伏見城の誤りかと思われます。また、家康が秀康の行動を称えたという記事はありません。

(4)「(浄光公年譜稿本)」(明治期成立)

 本史料は、明治期に津山松平家から宮内庁に提出された「浄光公年譜」4)の稿本の写しです。表紙には「旧津山様御借受写本」と書かれた付箋が貼られています。藩祖秀康の生涯と功績が記録されており、これまで紹介した史料の中では最も詳しい内容となっています。暗殺騒動に関する記述は以下の通りです。
「(浄光公年譜稿本)」
図4「(浄光公年譜稿本)」(⇒デジタルアーカイブ画像

 これによると、家康は秀康に対して「留守の御家人等をことごとく派遣せよ」と命じますが(F)、秀康はあえて大番衆を一部残し、伏見城の警固に回します。その理由を「たとえ何百万騎を派遣しても、思い通りになるわけではない。もし一大事があったときにはここに残した兵こそ役に立つと思い、このようにした」と、命令に背いて一部の兵力を残した意図を書き記して、家康に報告しています(G)。この対応について家康が称賛するのは(2)と同様です。
 さらに本史料では、秀康による伏見城の警固の様子が具体的に書かれています。西の丸には槍200本と鉄砲200挺、大手口・船入口・松の丸には兵を配置、さらにそれぞれ馬を3頭ずつ揃えるなど、厳重に守りを固めたようです(H)。
なお、元禄15年(1702)に新井白石が著した『藩翰譜』5)にも、ほぼ同様の記事が見られます。

まとめ

 以上、4点の史料をもとに結城秀康の行動を見てきました。おおよその流れは『徳川実紀』と共通していますが、史料によっては「兵を一部残して伏見城を警固した」ことや「秀康自身が巡見し、その差配を記録して家康に報告した」ことが書かれています。
 興味深いのは(4)です。それ以外の史料では、秀康はあくまで家康の命令通りに行動したという記述となっていますが、(4)では「すべての兵を派遣せよ」との命令に対し、「暗殺を防げなかった場合に備えて、あえて一部の兵を残した」という記述になっており、より秀康の判断力の高さが強調される逸話となっています。

おわりに(一次史料と二次史料)

 最後に、今回扱った慶長4年9月の徳川家康暗殺騒動ですが、そもそもこの騒動自体が本当にあった出来事なのでしょうか。実はこの騒動は一次史料(当時の日記・書状など)にはほとんど残されておらず、一部の公家や僧の日記に「大坂で“雑説”があったが、静まった」と書かれているだけです6)。もちろん結城秀康がどのように行動したかなどはまったくわかりません。
 歴史研究において一次史料が重要であることは当然ですが、これだけで歴史を叙述することは難しいです。これに対して、本コラムで紹介した『徳川実紀』や越前松平家の家史のような二次史料では、それが事実かどうかはわかりませんが、実に多くの情報が記載されています。私自身の経験を振り返ると、歴史上の人物や出来事に興味をもったきっかけの多くは、こちらの二次史料によるものでした。
 みなさんも、一次史料と二次史料、それぞれの特徴をふまえて、歴史を楽しんでみてはいかがでしょうか。
 田川雄一 令和5年(2023)5月24日作成
令和6年(2024)5月21日更新 

注(URLはすべて2023年5月24日参照)

1) 黒板勝美編『徳川実紀 第1編』(国史大系編修会、吉川弘文館、1990年)。「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能。現代語訳は大石学ほか編『現代語訳徳川実紀 家康公伝1 関ヶ原の勝利』(吉川弘文館、2010年)を参照した。
2) 長野栄俊「越前松平家の家史編纂について-「家譜」「世譜」の史料解題-」(福井県文書館資料叢書4『越前松平家家譜 慶永1』、2010年)。福井県文書館ホームページで閲覧可能。
3) 「国事叢記」は福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会共編『国事叢記 上』(1961年)に翻刻文を掲載。
4) 「浄光公年譜」は『徳川諸家系譜4』(続群書類従完成会、1992年)に翻刻文を掲載。
5) 大槻如電校訂『藩翰譜 巻一』(吉川半七、1896年)。「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能。
6) 公家の山科言経の日記「言経卿記」の慶長4年9月12日条には「大坂ニテ雑説種々有之、方々人ヲ遣了、相尋了」、13日条には「大坂雑説大略シヅマル也云々」との記事がみられる(東京大学史料編纂所編『大日本古記録 第9』、岩波書店、1977年)。また醍醐寺座主・義演の日記「義演准后日記」の同年9月13日条には「大坂雑説静謐、珎重」との記事がみられる(『史料纂集 古記録編 65』、続群書類従完成会、1984年)。