福井県文書館資料叢書

 福井文書館資料叢書は、福井県の歴史解明において重要で、かつ一般利用者の閲覧要望が多い資料を活字化し解説等を加えて刊行してきました。
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福井文書館資料叢書 9~21号「福井藩士履歴」

「福井藩士履歴」について

 「福井藩士履歴」は、越前松平家の約3,000家ある家臣団(幕末期)のうち、士分・卒身分の人事記録です。これらは一般の利用者からもっとも問い合わせの多いルーツ調べに役立つのはもちろんですが、福井藩における幕末の諸改革の展開、殖産政策や人材登用の変容、他藩との交流など、また維新後の近代日本を支えた人材創出の詳細をあきらかにするうえでも活用されることが期待されます。
 叢書9~14「福井藩士履歴1~6」は、家臣団のうち士分と呼ばれた中・上層の約1,000家の人事記録です。叢書では、利便性を考えて、掲載家を50音順に組み替えました。松平文庫(当館保管)の、主に「剥札はぎふだ」「士族」という資料にもとづいて作成しています。「剥札」には江戸時代中ごろ以降、死去や隠居などによって代替わりした各家の当主が記されており、「士族」には現役当主の履歴が1873年(明治6)ごろまで書き継がれています。内容は、各家の禄高の増減、家格の変化のみならず、職務内容や転役、江戸や京都など藩外への出張とその職務、改名、褒賞など多岐にわたっています。
 叢書15「福井藩士履歴7」は、士分のうち幕末期に新たに召し出された藩士の子弟(303名)の人事記録です。松平文庫(当館保管)の「子弟輩」「子弟輩剥札」という資料にもとづいて作成しています。
 叢書16~21「福井藩士履歴 新番格以下1~6」は、下級家臣団約500家(明治以降のいわゆる卒身分に相当する藩士の系)を対象とした人事記録です。松平文庫(当館保管)の「新番格以下」という資料にもとづいて作成しています。


(刊行)
福井藩士履歴
21号13巻(令和6年度刊行予定)
20号(2024.3)12巻
新番格以下5
フ~サ
(8.2 MB)
解説・参考資料:森岡浩「天方氏と福井藩士履歴」(2.5 MB)
主な掲載人物

寺嶋 仙右衛門(てらしま せんえもん、知義、生没年未詳) 
 足羽県廃県の際、廃棄文書を貰い受け、後に越前松平家に寄贈。それが現在の松平文庫の一部分を形成している。

佐々木 要之介(ささき、千尋、生没年未詳)
 越前松平家の委託によって村田氏寿とともに『続再夢紀事』全22冊を編纂した。

19号(2023.3)11巻
新番格以下4
ウ~マ
(6.0 MB)
解説・参考資料:国京克己「藩士履歴からみる作事と中判役家」(3.4 MB)
主な掲載人物

柳本 直太郎(やなぎもと なおたろう、1843~1913)
 第一大学区第一番中学(東京大学の前身の1つ)学長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、名古屋市長を歴任。藩士時代には英学修行を経て、慶応3年(1867)に佐々木権六とともに渡米した。

山本 武(やまもと たけし、条悦・条太夫・条助とも、1840~1904)
 衆議院議員や南満州鉄道社長を務めた山本条太郎の父。はじめ藩の小坊主・表御坊主などを務め、慶応元年(1865)に小寄合格に昇り、明治2年(1869)からは松平家の家従に任じられた。

18号(2022.3)10巻
新番格以下3
タ~ム
(1.8 MB)
解説・参考資料:布施賢治「福井藩の下級武士と明治維新」(1.1 MB)
主な掲載人物

坪田(岡倉)覚右衛門(つぼた(おかくら) かくうえもん、生没年未詳)
 明治時代の美術指導者である岡倉天心(覚三)の父。1855(安政2)年に諸下代となり1860年に小寄合格となる。同年から横浜で生糸を商う福井藩の商館石川屋を差配。福井藩探索方をつとめる。

高橋 直矢(たかはし なおや、生年未詳~1873)
 1867年(慶応3)小算として出仕。1871(明治4)に福沢諭吉のもとで英学を修行する。1872年(明治5)に武庫司として新政府に出仕するも翌年病死。

内藤 久作(ないとう きゅうさく、生没年未詳)
 もと足羽郡下馬村の百姓身分の人物で、1796年(寛政8)から荒子(あらしこ)に召し抱えられる。のち内藤姓を名乗り、新番格以下の下級藩士となった。

17号(2021.3)9巻
新番格以下2
ヲ~ヨ
(2.4 MB)
解説・参考資料:松田裕之「神戸市街地造成と越前福井藩-福井藩人事関係資料から読み解く」(1.6 MB)
主な掲載人物

小沢 誠一(おざわ せいいち、(加藤 春夫、かとう はるお)、生没年未詳)
 小沢兼吉の養子。1862年(文久2)に浮下代として出仕。1868年(慶応4)3月、三岡八郎(由利公正) 付。
 1871年(明治4)以降大蔵省、東京府、教部省勤務。1872年(明治5)に加藤春夫と改名。1877年(明治10)に足羽郡角原村の土地を、1878年(明治11)に坂井郡陣ケ岡の土地を購入して土地開発及び農業に従事。坂井郡三国町汐見に養蚕教習所を設置するなど、娘婿の加藤恒蔵とともに明治期の養蚕業を指導。1898年(明治31)に養蚕の指導書である『養蚕の手綱』を著す(国会図書館デジタルコレクション)。

清水 文蔵(しみず ぶんぞう、(河部 円、かわべ まどか)、生没年未詳)
 吉江定右衛門の子。1857年(安政4)藩校明道館の算科局乗除師。1861年(文久元)算学修行のため上京。
 1863年(文久3)4月、福井藩が購入した洋式汽船「黒竜丸」を長崎で受け取るため、藩所有の洋式帆船「一番丸」に諸士とともに乗り組む。同年6月測量方となる。その後、検地方、会計寮権少属などを歴任。1870年(明治3)5月数学佐教となり、以降数学教育に従事。1873年(明治6)、岐阜県師範学校の前身の師範研習学校の初代校長となる。1877年『筆算階梯』を編む(国会図書館デジタルコレクション)。

脇谷 又太郎(わきや またたろう、生没年未詳)
 「新番格以下」に収載される福井藩士としては珍しく、江戸時代初期の慶長年間からの記載がある2家のうちの1家(もう1家は中村太兵衛家)。
 脇谷又太郎は1602年(慶長7)御作事方手代書役となり、1624年(寛永元)に引退。以後明治維新期まで、脇谷家の歴代11名は卒の家格を保った。

16号(2020.3)8巻
新番格以下1
イ~リ
(3.0 MB)
解説・参考資料:森下徹「福井藩の下級家臣団」(1.0 MB)
主な掲載人物

橋本 安治(はしもと やすじ、(小森 治郎吉、こもり じろきち)、1839-1884)
小森篤平の養子。文久2(1862)年に浮下代として出仕。維新後、慶応4(1868)年3月、三岡八郎(由利公正)とともに上京。同年5月、会計官判事筆生として明治政府に出仕。同時期に造幣権助、出納司大佑、出納司権正などを歴任。明治9(1876)年、検査権頭。明治10 (1877)年、大蔵省権少書記官。明治13(1880)年、精算局に異動。明治14(1881)年、国際局詰、調査局勤務。正六位勲六等単光旭日章を授かる。
娘婿は橋本正治(大正期に鹿児島県知事、山口県知事を勤めた人物)。

庭瀬 孝一郎(にわせ こういちろう、生没年不明)
庭瀬万斎の子。安政7(1860)年に表御坊主として出仕。その後、御時計役、不寝役などを勤める。慶応3(1867)年5月、鳴物方、同年11月に喇叭役に任じられる。維新後も引き続き、第二等楽手、楽隊世話役、楽手伍長など軍楽に関わる職務に従事している。明治3(1870)年には、喇叭の修行を目的として鯖江藩に派遣されている。

富田 材輔(とみた ざいすけ、(富田 厚積、とみた あつみ)、1836-1907)
富田為次郎の子。江戸で儒学者安積艮斎、安井息軒らに学び、文久4(1864)年に学問所句読師として出仕。以後、慶応4(1868)年明道館訓導役など藩校明道館に関わる職務に従事する。維新後の明治5(1872)年、福井県下初の新聞「撮要新聞」を発行する。明治12(1879)年、福井公立明新中学校長。字(あざな)は美卿。通称は材輔、厚積。

15号(2019.2)7巻 子弟輩
(2.1 MB)
個別ファイル:口絵・凡例・細目次イハニホトチヲワカヨタツネナムウノクヤマケフコテアサキメミシヱヒモセス剥札
解説・参考資料:野尻泰弘「史料集の効用」(1.4 MB)
主な掲載人物

八木 八十八(やぎやそはち、日下部 太郎(くさかべ たろう)、1845-1870)
 八木郡右衛門の長男。慶応元(1865)年に英学修行のため長崎に赴きました。幕府の海外渡航の禁令が解かれると米国留学の第一号に選ばれ、慶応3(1867)年横浜から出航、州立ラトガース大学に入学し、後の福井藩雇理化学教師W・E・グリフィスの指導を受けました。4年の課程を3年で習得し、常にクラスで首席を通しました。しかし明治3(1870)年、卒業を目前に病死してしまいます。その後、同大学より黄金の鍵(首席卒業生の証)が贈られています。

長谷部 卓爾(はせべ たくじ、1845~1910)
 長谷部甚平の長男。文久3(1863)年に航海術修行のため、兵庫に赴き勝海舟の下で学びました。明治2(1869) 年、箱館産物取締御用掛。明治5(1872)年、会計事務局に出仕。以後、箱館裁判所民政掛監察兼外国掛、徴士箱館産物取締御用、開拓使御用掛、開拓権判官、開拓少判官、開拓中判官などを歴任。明治6(1873)年より樺太支庁に在勤。明治8(1875)年、樺太・千島交換条約の実施のため理事官に就任。明治22(1889)年、山形県知事に登用されました。
 明治38(1905)年、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任しました。

団野 確爾(だんの かくじ、1847~没年未詳)
 団野千久馬の養子。文久3(1863)年、芝御陣屋番士として取り立てられました。その後隊士として諸隊に配属され、天狗党の乱や会津戦争に従軍。明治2(1869)年、柔術世話役頭取となるが、翌年2月に土着開墾と一万五千坪の譲渡を願い出て許可され、帰農。同年閏10月、由利公正に随行した東京出張をきっかけに酪農家を志し、築地の牛馬会社や横浜在住の英国人から搾乳・製乳を学び、洋牛を購入して帰福。乳牛の飼育と牛乳の販売を開始します。事業は失敗に終わりますが、再興を図りそれが交同社(福井藩の士族が設立した活版印刷・牛乳販売の会社)の基礎となりました。

14号(2018.2)6巻 み~わ
(6.6 MB)
個別ファイル:口絵・凡例・細目次(5.4 MB)/
解説・参考資料:町田明広「幕末維新史研究における越前藩史書の重要性について-薩摩藩研究を事例として」(1.5 MB)
13号(2017.2)5巻 の~ま
(3.2 MB)
個別ファイル:口絵・凡例・細目次
解説・参考資料:母利美和「『福井藩士履歴』編纂の歴史的意義」(2.0 MB)
12号(2016.2)4巻 た~ね
(2.1 MB)
個別ファイル:口絵・凡例・細目次
解説・参考資料:角鹿尚計「福井県文書館資料叢書『福井藩士履歴』とレファレンス」(2.0 MB)
11号(2015.2)3巻 け~そ
(2.4 MB)
個別ファイル:口絵・凡例・細目次
解説・参考資料:高木不二「福井県文書館資料叢書『福井藩士履歴』の利用価値-おもに「剝札」 「士族」について-」(1.3 MB)
10号(2014.2)2巻 お~く
(2.5 MB)
個別ファイル:口絵・凡例・細目次
解説・参考資料:熊澤恵里子「幕末明治の福井藩人材育成と海外渡航」(1.4 MB)
9号(2013.2)1巻 あ~え
(2.7 MB)
個別ファイル:口絵・発刊にあたって・凡例・細目次
解説・参考資料:吉田健「幕末維新期の福井藩人事関係資料(松平文庫)について」

福井文書館資料叢書 4~8号「越前松平家家譜 慶永」

「越前松平家家譜 慶永」について

 福井県文書館では、文書館叢書第4~8号として『越前松平家家譜(かふ)』慶永1~5を発刊しました。
 「家譜」は初代福井藩主結城秀康から最後の藩主松平茂昭にいたる253巻に加え、慶永(春嶽)が藩主を退いた後、明治以降の記述が追加として17巻存在しており、270巻にわたって松平家の記述が綴られています。
 「家譜」の内容は越前松平家の冠婚葬祭や幕府・将軍家との諸儀礼および幕府法令等がかなりの部分を占めていますが、藩内の法令や財政・自然災害など、藩政全般にわたる記述も少なからずみられ、幕末の福井藩の状態をうかがい知る基礎的な資料となっています。

「越前松平家家譜 慶永」全5巻叢書4~8の集成版:13.0 MB
8号
(2011.3)
5巻:1881年(明治14)から慶永が死去する1890年(明治23)まで
概要

 第7巻および第8巻収録分は、家譜の題箋に「追加」と記されており、付録的な意味合いを持ちます。藩主は1858年(安政5)に養子茂昭が継いでいるので、それ以降は藩主・知藩事等に関わる記述の多くが茂昭の家譜に記され、慶永の家譜は、族に列せられた越前松平家の長としての慶永の家政内の記述や、親戚や他の華族との交際に関わる記述でかなりの部分が占められています。
 とはいえ、全国的に鉄道会社建設の機運が高まりを見せる中で北陸の旧大名などを中心として起こった鉄道会社の設立準備とその挫折の様子や学習院に関する記述、朝鮮で起こった甲申事変に対する慶永の所感などを見ることができます。また、慶永の晩年の健康状態や治療の様子、葬儀およびその後の祭事が詳細に記録されており、華族の家の交際範囲なども知ることができます。

個別PDFファイル
7号
(2010.11)
4巻:1868年(明治元)から1880年1881年(明治13)まで
概要

 藩主は養子茂昭が継いでいるので、藩主・知藩事等に関わる記述の多くは茂昭家譜に記され、慶永の家譜は越前松平家の長としての慶永の家政内の記述、親戚や他の華族との交際に関わる記述でかなりの部分が占められています。
 とはいえ、1867年(慶応3)12月の小御所会議で議定に任じられて以降、1870年(明治3)まで慶永は明治政府の要職を歴任しており、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争の様子や、親藩として徳川宗家存続に力を尽くす慶永の様子をうかがい知ることができます。

個別PDFファイル
6号
(2011.2)
3巻:1854年(安政元)から1867年(慶応3)まで
概要

 巻の前半では慶永が引続き藩政改革に意欲的に取り組み、西洋の学問や軍備を取り入れていく様子が記されます。しかし、1858年の安政の大獄により慶永は「隠居・急度慎」の処分をうけます。家譜は主として藩主の事績を記しますので、これ以降の福井藩関係のできごとの多くは次期藩主である茂昭家譜に記されています。とはいえ、処分が解かれたのち、1864年(元治1)には藩主茂昭と相談したうえで二人の役割をきめ、家臣にそれを伝えていることや、禁門の変およびそれに続く長州出兵、水戸の天狗党への対応などが記され、慶永が藩主を退いた後もなお大きな力を持ち、国政に力をふるった様子をうかがい知ることができます。

個別PDFファイル
  • 口絵
  • 凡例
  • 年次ごとの主なできごと
  • 1. 安政元年1月~2月12日
  • 2. 安政元年2月18日~5月
  • 3. 安政元年6月10日~12月
  • 4. 安政2年1月~10月3日
  • 5. 安政2年10月5~12月
  • 6. 安政3年1月~6月23日
  • 7. 安政3年7月~12月
  • 8. 安政4年1月~閏5月
  • 9. 安政4年6月~12月
  • 10. 安政5年1月~7月17日
  • 11. 安政5年10月~文久元年11月
  • 12. 文久2年
  • 13. 文久3年
  • 14. 元治元年
  • 15. 慶応元年~2年
  • 16. 慶応3年
  • 解説:本川幹男「松平慶永と福井藩政」
  • 参考資料
5号
(2010.3)
2巻:1843年(天保14)から1853年(嘉永6)まで
概要

 徹底した倹約に加えて、50年にわたって続けられた産物政策の中止と農業振興という藩政の転換、外交関係の緊張に伴う海岸の巡見や台場築造、軍制の洋式化、大規模な調練(軍事訓練)などの記録が見られます。そしてペリー来航の嘉永6年には幕府からの命を受けて在府藩士が品川御殿山の警衛にあたり、福井からも出兵準備を進めたこと、外国人とのやり取りに関する照会などが記されています。

個別PDFファイル
  • 口絵
  • 凡例
  • 年次ごとの主なできごと
  • 明治
  • 明治
  • 参考資料
4号
(2010.3)
1巻:1838年(天保9)から1843年(天保14)まで
概要

 福井藩の最重要課題であった90万両ともいわれる借財に対して、わずか11歳で藩主となった松平慶永が家中に倹約を求めるのみならず、みずから質素倹約に努め、手元金を半減するなどして財政悪化を食い止めようとする様子、藩札の大量発行による経済の混乱などが具体的に見られます。一方で中根雪江らが登用され、藩政改革が始まりつつあることが知られます。

個別PDFファイル
  • 口絵
  • 凡例
  • 年次ごとの主なできごと
  • 明治
  • 明治
  • 解説:舟澤茂樹「松平慶永と慶永代「家譜」について」
  • 参考資料



福井文書館資料叢書 3号「若狭国小浜町人の珍事等書留日記」


福井文書館資料叢書 1~2号「元禄期越前の幕府領大庄屋日記」

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