幕末ふくい 天然痘との闘い ‐福井・鯖江・大野の種痘とその担い手たち‐

開催期間・場所2023年8月25日(金)~10月25日(水) 9:00~17:00 福井県文書館閲覧室(入館無料)
関連イベント
  • 9月24日(日)13:30~16:00:講演会「天然痘と闘った人々-種痘伝来・福井・全国-」(終了しました)
  • 10月9日(月・祝)15:00~16:00:ゆるっトーク「幕末ふくい 天然痘との闘い-福井・鯖江・大野の種痘とその担い手たち-」 (終了しました)
ポスターポスターサムネ用(PDF 5.6 MB)

はじめに

種痘之図  天然痘てんねんとう解説1.)はワクチン接種(種痘しゅとう )によってウィルスを封じ込めることができた唯一の感染症といわれています。オランダ領のバタヴィア(現在のジャカルタ)から長崎へワクチン(痘苗)が活性のある状態でもたらされ、種痘に成功したのは、1849年(嘉永2)6月のことでした。
 そこから京都に送られた痘苗は駆けつけた福井の町医笠原良策かさはらりょうさく白翁はくおう )によって大坂の緒方洪庵おがたこうあん へと分苗され、その門人たちによって西日本一帯に広がりました。雪の栃ノ木峠を越えて福井に戻った笠原は、越前府中・鯖江・敦賀・大野・金津、さらには越中富山、加賀金沢・大聖寺へと痘苗を分け、北陸各地で種痘が開始されました。
 この展示では、幕末の越前における福井・鯖江・大野各藩の種痘の展開をその担い手に着目して紹介します。

目次


1. 導入期の町医の苦闘-米20俵だけでは種痘は継続できない-

福井藩除痘館の変遷 念願の痘苗を入手した笠原良策は、福井へ戻ったその日(1849年(嘉永2)11月25日)から自宅隣家(25畳)の「仮除痘館」で種痘を開始しました。笠原は、それ以前に清国からの痘苗取寄せを計画し2度にわたり藩へ願い出、藩も老中阿部正弘や長崎奉行に働きかけていました。笠原とともに種痘を担ったのは、三崎玉雲・大岩主一・宮永俊策・大岩本立・宮永良丹ら福井城下の町医たちでした。
 この頃の種痘はヒトからヒトへと適切なタイミング(6日あるいは7日め)で植え継がねばならず、自身の接種が終わっても再診してもらう必要がありました(解説2.)。なによりその効果を疑い、笠原を誹謗中傷する藩医や町人も少なくなかったのです。
 福井藩は種痘を受ければ天然痘に罹ることはないこと、笠原に年米20俵を下付するので謝礼は不要であるという触書を出しました(1850年2月)。しかし、種痘を受ける子どもを盛夏や厳寒の時期も、また盆や正月にも絶え間なく集めることは町医たちだけの力ではたいへん難しく、痘苗はたびたび途絶えそうになりました。実際に福井から各地に分けた痘苗は、すべての地域で間もなく絶苗していました。
 そうした中で福井藩が本格的に種痘に関与するのは導入から2年後のことでした。1851年(嘉永4)8月、石原甚十郎を種痘接続掛りの目付に任命し、10月、外堀北の下江戸町に新たに藩営除痘館を開設しました。

(1) 笠原良策の種痘記録

笠原良策の種痘記録  笠原良策が自ら記した京都で痘苗を入手した1849年(嘉永2)10月前後から59年(安政6)までの記録です。
 往復の手紙などから京都・大坂や分苗先の諸藩での種痘導入、福井の仮除痘館の運営や藩役人との応対、1855年(安政2)の越前海岸への出張種痘などが詳細にわかる重要な資料です。
資料名:「白神痘用往来」  嘉永2年~安政6年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(2) 長崎からのワクチンの出所 (展示期間:2023年8月25日~9月7日)

長崎からのワクチンの出所  京都の日野鼎哉ていさい (笠原の師)のもとに届けられた痘苗は、長崎の唐通事とうつうじ (通訳)穎川えがわ 四郎八が孫2人に種痘を受けさせて得た痘痂とうか (かさぶた)8粒でした(1849年9月19日京都着)。
 当初、長崎奉行所は痘苗を管理せず、京都へ送られた痘苗は長崎での最初の種痘(6月26日)から2か月間、長崎市中に拡散していたものでした。
資料名:「白神痘用往来」第二 嘉永2年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(2) 厳寒の栃ノ木峠越えは、周到な準備で (展示期間:2023年9月8日~9月21日)

厳寒の栃ノ木峠越えは、周到な準備で  雪に降りこめられた時に備えて種痘は2サイクルで準備し(11月16日と19日に接種、19日出発)、長浜で京都の子どもから福井の子どもに植え継ぎました(22日)。
資料名:「白神痘用往来」第二 嘉永2年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(2) 「博済録」や「養生書」などの印刷 (展示期間:2023年9月22日~10月5日)

「博済録」や「養生書」などの印刷  天然痘流行時には、下江戸町の除痘館に200人ほどの希望者が群集しました。その中で医師たちの役割分担や接種記録「博済録」の書式が検討され、種痘を受けた子どもが次に持参する「切手」や接種後の留意点をのせた「養生書」も木版で印刷されました。これによって、朝8時に植えはじめ午後2時頃には終了できたといいます。
資料名:「白神痘用往来」第七 嘉永4~5年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(2) 江戸藩邸へも早くワクチンを (展示期間:2023年10月6日~10月19日)

江戸藩邸へも早くワクチンを  江戸藩邸へも早く痘苗を届けたいと思っていた笠原でしたが、江戸到着は1849年(嘉永2)11月28日となり、「残念忘れがたい」と記しています。
資料名:「白神痘用往来」第三 嘉永2年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(2) 大阪除痘館の開所式 (展示期間:2023年10月20日~10月25日)

大阪除痘館の開所式  日野鼎哉、桐山元中らとともに出席した緒方洪庵の除痘館の開館のようすを記した半井元冲あての手紙です(1849年(嘉永2)11月7日)。
資料名:「白神痘用往来」第二 嘉永2年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

2. 福井藩除痘館の担い手たち

下江戸町除痘館の見取り図(滋賀医科大学附属図書館蔵)  福井藩の種痘の拠点となったのは、町医たちが中心となった導入期と比べ建物や運営体制、人的規模において格段に充実した藩営の除痘館でした。
 建物は、それ以前は幕府領預所あずかりどころ の役所であったもので、長屋門をもつ100畳余の屋敷でした。当初、鑑定方(免疫ができたかを診断)・種痘方・応接方等に割りふられた医師は総勢74人で、在国中のほぼすべての藩医と城下町医の約6割を組織していました。
 種痘掛り目付の任命は1865年(慶応元)までの14年間にわたって続き、人事評価を職務とした目付が表彰した医師は103人(藩医50人、町医53人)におよびました(『福井藩士履歴』)。このように福井藩で目付を種痘掛りに加えざるをえなかった背景には藩医と町医との根深い確執があったと考えられます。
 また種痘を担った町医のなかから藩医へ登用された者がいたことは注目されます。三崎玉雲(道生)は表医師に、大岩主一は謹慎中の松平春嶽に仕えました(1861年から匙医師)。
 さらに慶応期から明治初年まで種痘を積極的に担ったのは、梶井養順・高井見竜・細田竜渕・加藤桂寿・石塚泰輔ら町医で、いずれも種痘導入当初の笠原社中には含まれない次世代の町医たちでした。

(3) 種痘を担った医師たちの誓約書

「除痘館誓約」嘉永2~3年 國枝家文書(当館寄託)A0211-00001  当初、除痘館の町医たちは「館外で種痘を行わない」「(6日あるいは7日の)接種のスケジュールを遅らせてはならない」「利益をむさぼ らない」などの項目を厳守することをこの文書で誓っていました。分苗を受けた越前国内外の医師たちも同様でした。
 具体的には、笠原の署名に続いて三崎玉雲・大岩主一ら福井城下の町医、斎藤策順・渡辺静庵ら府中の医師、富山藩医の横地元丈、金沢の町医明石昭斎、敦賀の町医吉田三郎、鯖江藩医の土屋得所・雨宮玄仲、大野藩医林雲渓・中村岱佐、大聖寺の岡沢終吉らが署名と花押を連ねています。
資料名:「除痘館誓約」嘉永2~3年 國枝家文書(当館寄託)A0211-00001

(4) 福井藩除痘館での種痘は、無料だが…

「越前世譜 慶永」嘉永4年 松平文庫(当館保管)A0143-01954  笠原良策らが運営した仮除痘館と同様に、下江戸町の除痘館でも謝礼は一切不要であることを知らせた触書です(1851年(嘉永4)9月)。しかし、3~4里(12~16km)より遠方から来館する者は極めて稀(まれ)だったようです。このため笠原は1855年(安政2)に越前海岸の蒲生・小丹生浦への種痘を実施しましたが、これは謝礼を徴収するものでした。
資料名:「越前世譜 慶永」嘉永4年 松平文庫(当館保管)A0143-01954

3. マニュアル「除痘館手続書」と種痘記録「博済録」

 福井藩の除痘館では、詳細な種痘運用マニュアルである「除痘館手続書」を作成していました(滋賀医科大学附属図書館蔵)。これは、天然痘が大流行した1852年(嘉永5)以降、爆発的に増えた来館者に確実に種痘を行うために作成したものと考えられます。江戸藩邸での種痘もこの「手続書」に基づいて行われていたことは、藩医坪井信良の手紙からわかります(宮地正人編『幕末維新風雲通信』)。
 「手続書」では来館した子どもを、はじめて種痘を受ける「甲」、次の子どもに痘苗を引き継ぐ「痘母とうぼ 」となる種痘後7日めの「乙」、鑑定を待つ10日め以降の「丙」の3種類に分けていました。初回から16日め以降に正常にかさぶたができて免疫ができたと診断されるまで、医師が担う鑑定方と種痘方、記録作成に専任する書記方の業務、清書方が作成する種痘記録「博済録」の記載内容などが具体的に記されています。たくさんの子どもと保護者を手際よく導くために、黄や赤で色分けされた旗やたすき が用いられました。
 種痘後20日の間に他病を合併した場合には、鑑定方ら医師が診察の上で治療(薬代は藩が支出)するとしており、化膿や梅毒等の感染への対応を明記していた点も注目されます。
除痘館手続書 滋賀医科大学附属図書館蔵

(5) ガラス製の保管容器と種痘針

ガラス製の保管容器と種痘針  笠原良策が使っていた種痘道具です。ガラス容器は、清国からの痘苗輸入のために京都の桐山元沖と協力して製作したものとされ、富山への再分苗の際にも貸し出されました。
 種痘針は当初京都の外科道具師「安則」のものを使っており、1853年(嘉永6)には福井城下の鍛冶にも作らせていました(『白神記』、『戦兢録』)。
資料名:「種痘針及蓄苗用ガラス器」 (福井市立郷土歴史博物館蔵)

(6) 種痘で表彰された福井藩医の履歴

種痘で表彰された福井藩医の履歴:「士族四」 松平文庫(当館保管)A0143-00487  奥外科医の栗崎悦也(道伯)は、下江戸町の除痘館開館時に笠原良策に入門し、その後種痘に出精したとしてたびたび藩から褒詞を受けていました。
 栗崎家の先祖はマカオで修行したという南蛮医術の流派です。
資料名:「士族四」 松平文庫(当館保管)A0143-00487

4. 藩医がリーダーシップをとった鯖江藩の種痘

 鯖江藩で種痘に着手したのは、土屋得所とくしょ ・雨宮玄仲・内藤隆伯ら蘭方を学んだ藩医たちでした。
 痘苗が諸国に伝わりはじめたことを知った土屋が最初に働きかけたのは福井藩ではなく、京都の蘭方医新宮凉庭しんぐうりょうていでした(1850年に養子新宮凉哲が鯖江藩医に召出)。そして新宮が相談するよう伝えてきた門人の本多小太郎は、福井藩の種痘開始からわずかに遅れる1849年(嘉永2)12月中旬に福井城下にやってきて種痘を始めていたのでした。
 本多の活動は、まもなく福井藩によって制限されたため、翌1850年2月、土屋は丹生郡糸生村(鯖江藩領)の村医内藤貞庵父子を介して笠原良策を訪問して伝苗を依頼し、その場で了承されました。いっぽう近隣ですでに種痘を始めていた府中の町医たちとの間では調整が必要であり、実際に種痘が開始されたのは、3月9日のことでした(福井城下から子ども2人と保護者を派遣)。
 こうして種痘を開始した鯖江藩でしたが、まもなくして土屋が江戸の蘭方医伊東玄朴(佐賀藩医)のもとに遊学し、その間に絶苗してしまいます。1852年3月、再び福井藩から伝苗を受けた後でも、同年では子どもに種痘を受けさせることを強く勧奨する触書が必要なほどに、種痘継続に苦しんでいました(『鯖江市史』史料編4)。
 その後安政期(1854~60年)に入ると、鯖江陣屋に隣接する東鯖江村において、天然痘に罹ったことがなく、種痘も受けていない子どもの調査が開始され、この頃には種痘日程を知らせる木版の印刷物も作られるようになりました。

(9) 鯖江藩の年間種痘日

鯖江藩の年間種痘日:「未年種痘日」飯田広助家文書(当館寄託)G0024-01550  年間を通して、6日めごとに種痘が予定されています。30日まであるだい の月に着目すると、この「ひつじ 年」が1859年(安政6)であったことがわかります。
資料名:「未年種痘日」飯田広助家文書(当館寄託)G0024-01550(画像は館内端末からのみ閲覧可能)

(10) 京都からやってきた医師本多小太郎 (展示期間:2023年8月25日~9月7日)

京都からやってきた医師本多小太郎  京都の蘭方医からの手紙で、笠原は1849年(嘉永2)12月中旬に早くも福井城下で種痘をはじめた者がいることを知ります。それは新宮凉庭の弟子で本多小太郎という人物でした。実際に種痘を受けた子どものかさぶたのようすを見せてもらうと、免疫ができたとはいえない状態だったため、笠原は側用人秋田八郎兵衛にその旨の口上書を提出しています。
資料名:「白神痘用往来」第四 嘉永2~3年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(10) 村医内藤貞庵・道逸への返答状 (展示期間:2023年9月8日~9月21日)

村医内藤貞庵・道逸への返答状  分苗を申し出た糸生村の村医内藤父子に対して、笠原は絶苗を避けるために藩医から鯖江藩主へ願い出、協力して種痘を行うようにと答えています。
資料名:「白神痘用往来」第四 嘉永2~3年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(10)京摂は妄種もうしゅ に苦しみ、当地は妬情とじょう に悩み (展示期間:2023年9月22日~10月5日)

京摂は妄種に苦しみ、当地は妬情に悩み  1850年(嘉永3)2月、金沢や敦賀とともに鯖江からも伝苗の依頼がきていることを、笠原から江戸詰めの藩医半井なからい 元冲(仲庵)に伝えています。
 冒頭部分では、鑑定もせず再接種もしないみだ りな種痘が広がる京坂地方に対し、福井城下では悪口やねた みが日に日に盛んとなり、誤った風評によって接種希望者が集まらないと嘆いています。
資料名:「白神痘用往来」第四 嘉永2~3年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(10) 「狭郷」なのでワクチンの中絶が心配 (展示期間:2023年10月6日~10月19日)

「狭郷」なのでワクチンの中絶が心配  鯖江藩医土屋得所は、3月9日に福井城下の子ども2人から7人に、さらに15日に7人に植え継がれたことを報告しています。
資料名:「白神痘用往来」第五 嘉永3年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(10) 鯖江藩への再伝苗 (展示期間:2023年10月20日~10月25日)

鯖江藩への再伝苗  痘苗が絶えた鯖江藩では、1852年(嘉永5)3月福井で種痘を受けた上鯖江村の子どもから再び分苗を受けたいと福井藩に願い出て許されています。
資料名:「白神痘用往来」第七 嘉永4~5年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

5. 鯖江藩の出張種痘と池田地域の大庄屋

福井藩・鯖江藩の出張種痘関係地域(福井藩では1855年(安政2)に蒲生浦・小丹生浦へ出張種痘を実施) 鯖江藩医たちは、安定した種痘が可能となった安政期に大野郡と今立郡の藩領へ出張して種痘を行いました。
 土屋得所は、1855年(安政2)に「公事くじ 」(公務)ではないと種痘に協力しない村役人を動かすために、福井藩のように種痘担当役人を置くよう求める口上書を藩に提出しました(土屋得所家文書)。
 その結果任命された種痘世話方宇野初右衛門藩医小磯栄喜が藩領の村むらを巡回し、種痘を実施したいという村役人がいた大野郡保田村で種痘が行われました(1857年2月、土屋と藩医窪田文了が出張)。これは、保田村を起点に鯖江藩領がまとまっている鹿谷地域で種痘を植え継ごうという計画でしたが、隣接する各村役人の反発は大きく、植継ぎはできませんでした。
 しかし今立郡池田地域では、鯖江藩領38か村中36か村で種痘を実施することができました(1859~60年)。これは福井藩でも実現できなかった広域にわたる連続的な種痘であり、その実施には、池田地域の大庄屋飯田彦次兵衛斎藤庄三郎が深く関わっていました。

(7) 池田地域の種痘の日割

「種疱瘡日割書上帳」 飯田広助家文書(当館寄託)G0024-01549  鯖江藩の除痘館から20㎞以上離れている池田地域の大庄屋組(東俣組)で行われた大規模な出張種痘の日割です(1859年(安政6))。
資料名:「種疱瘡日割書上帳」 飯田広助家文書(当館寄託)G0024-01549(画像は館内端末からのみ閲覧可能)

(8) 木谷村・割谷村からの種痘延期願い

飯田広助家文書(当館寄託)G0024-00138-018  共同で焼畑を管理していたこの2村では、動物の食害から畑を守るために総出で昼夜番をしているので、くじ引きで決まった種痘の日程を翌年(1860年)4月に延期してほしいと願い出ていました。この資料から(7)の種痘日割は、地理的な連続性を考慮せずに決められたことがわかり、池田地域の出張種痘は一定の拠点を設けて行われたと考えられます。
資料名:「乍恐以書付奉願上候(種痘差延願)」飯田広助家文書(当館寄託)G0024-00138-018(画像は館内端末からのみ閲覧可能)

6. 谷々を回る大野藩の種痘

 福井藩や鯖江藩と比べて、医師の残した資料が見つかっていない大野藩の種痘については、不明な部分が少なくありません。ただ藩主土井利忠としただが杉田成卿せいけい (小浜藩)や鷹見泉石たかみせんせき (古河藩)などを招き蘭学を学んでいたこと、さらに痘苗が伝来する半年前に嫡子利知としまさ を天然痘で亡くしていたことは、大野藩が積極的に種痘を推進する要因となりました(『大野市史』通史編上)。
 大野藩の種痘は、1850年(嘉永3)3月、藩医林雲渓町医中村岱佐たいすけが笠原良策に依頼し、連れて行った大野城下の子どもに接種してもらって開始されます。
 なかなか接種希望者が集まらず、痘苗は6月にはいったん絶えてしまいます。その冬から山間部の本戸村・黒当戸村では天然痘が流行し、翌年1月には村役人からの依頼で林雲渓土田竜湾が約100人に種痘を行いました(「柳陰紀事」、『白神記』、大野藩「御用留」)。
 さらに大野藩では本戸村・黒当戸村に限らず、こうした城下から離れた藩領に対して早い時期から積極的に種痘に取り組んでいたことが注目されます。
 具体的には(1)丹生郡の西方領(土田竜湾・林雲渓が出張、1851年2~3月)、(2)下若生子村(52年7月)、(3)大納村(滝波元章が出張、同年10月)、(4)面谷(箱ケ瀬村枝村、滝波元章・土田竜湾が出張、54年5~6月)でも行われており、その際に町医松川忠作・青山良平・大島南渓らも「谷々回在」し協力したことで、一代限り帯刀御免の褒美を受けていました(大野藩「御用留」)。

(11) 大野から連れてきた子どもに接種 (展示期間:2023年8月25日~9月7日)

大野から連れてきた子どもに接種  3月20日(1850年(嘉永3))、大野から林雲渓と中村岱佐たいすけ が分苗を頼みにやってきたので、翌日分苗したと記されています。
資料名:「白神痘用往来」第五 嘉永3年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(11) 大野からの礼状 (展示期間:2023年9月8日~9月21日)

大野からの礼状  福井で種痘を受けた大野の煙草屋の子どもから、7日後に3人の子どもへ接種し、いずれも「至極好都合しごくこうつごう」経過したと、林雲渓は報告しています。
資料名:「白神痘用往来」第六 嘉永3~4年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(11) 天然痘大流行が証明したこと (展示期間:2023年9月22日~10月5日)

天然痘大流行が証明したこと  1850年(嘉永3)冬から山間部(旧西谷村)で天然痘が大流行し多くの死者がでた際、以前に種痘を受けた子どもには感染しなかったことが人々の猜疑さいぎ 心を打ち破ったようです。これをきっかけに、村役人の願い出により100人ほどが種痘を受け、「苗児びょうじ 」(種痘を受ける子ども)を探し続ける苦労から抜け出すことができたと、大野藩医は報告しています。
資料名:「白神痘用往来」第六 嘉永3~4年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(11) ワクチンを盗んで種痘を始めた村医 (展示期間:2023年10月6日~10月19日)

ワクチンを盗んで種痘を始めた村医  丹生郡にある大野藩領織田村で昨年(嘉永5)から種痘を始めた者がいることを知った笠原良策は、大野藩医に取り締まりを求めて手紙を出しています。
資料名:「白神痘用往来」第八 嘉永6年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(11) 大野藩種痘館の別館開館 (展示期間:2023年10月20日~10月25日)

大野藩種痘館の別館開館  1857年(安政4)閏5月に織田村に種痘館の別館が置かれる経緯を記し、近隣の鯖江藩と府中の医師たちに対しても、その旨を連絡しています。
資料名:「白神痘用往来」第九 安政元~万延元年(福井市立郷土歴史博物館蔵)

(12) 大野藩病院での種痘と接種証明書

「諸用留」万延元年 野尻源右衛門家文書I0075-00022  末息子が大野藩の「病院」で受けた種痘のようすを記しています。まず1860年(万延元)2月1日に種痘を受けましたが、うまくいかず8日に再接種、15日の診察で免疫ができたと判定されました。その謝礼として7匁を支払い、「書付」(接種証明書)をもらっています。17日には天然痘が大過なく済んだ時と同じように「湯懸ゆか け」の祝いを行っていました。
資料名:「諸用留」万延元年 野尻源右衛門家文書I0075-00022

7. 西方領の別館開館と「病院」での種痘

 大野藩では、1857年(安政4)に丹生郡にある西方領の織田村に種痘館の別館を置きました。
 この別館の運営を任されたのは、近隣の鯖江や府中の医師が行った種痘からひそかに痘苗をえて種痘をしていると訴えられていた村医小山養寿でした。この頃には西方領の村むらでも種痘を受けたいという者が増えていたと考えられます。
 このため大野藩では藩医林雲渓が直接、福井や府中へ出向き、小山の不調法を謝罪し、免疫ができたかを診断する鑑定方法などもしっかり教えることを約束しました。こうして西方領に常設の別館が開かれました(Maren Ehlers, Give and Take: Poverty and the Status Order in Early Modern Japan、『白神記』、大野藩「御用留」)。
 さらに同じ年12月には、家臣や町在の領民が治療を受けられ、種痘も行う「病院」が大野城下に開設されました(『福井県史』資料編7)。不確かな薬店や医師の営業を禁止し、極貧の者には吟味の上無償で投薬すると達書で知らされた大野藩の「病院」は、実際にどのように運営されたのでしょうか。新たな資料の発見が待たれます。
西方領「越前国地理全図」[幕末期]松平文庫(当館保管)A0143-21196

解説1. 天然痘はこんな病気

●病原体……天然痘は天然痘ウイルスによって引き起こされる発疹性の感染症です。ウィルスは低温や乾燥に強いですが、アルコール、ホルマリン、紫外線で容易に不活化されます。
●致死率……重篤なものでは約30%(20〜50%)、比較的軽いものでは1%以下。
●いつから……日本では大陸との交流が盛んになると、天然痘をはじめとする伝染病が入ってくる機会が多くなりました。たとえば、737年(天平9)、流行していた疱瘡ほうそう (天然痘)を鎮めたことで泰澄は高い僧位と泰澄の名をたまわ ったと伝えられています(『福井県史』年表)。
●感染経路と経過……おもにヒトからヒトへの飛沫感染。およそ12日間(7〜16 日)の潜伏期間を経て、急激に発熱します。発疹は、紅斑→丘疹→水疱→膿疱→結痂けっか落屑らくせつ と規則的に移行し、あとがくぼみ「あばた」として残りました。
国立感染症研究所ホームページによる。)
池田独美(錦橋)『 痘疹戒草』3巻 京都大学附属図書館蔵

解説2. ヒトからヒトへ植え継ぐ痘苗(ワクチン)の制約

 江戸時代の種痘は、種痘を受けた子どもの腕から次に種痘を受ける子どもの腕へ、6日あるいは7日毎に植え継がれる人伝の種痘でした。
 具体的には、種痘でできた水疱から取った膿汁を塗った種痘針で表皮をすくって、5・6か所ほど刺し入れました。
 このため子どもたちは、自身が種痘を受けた時と、次の子どもに植え継ぐ時の最低2度苦痛に遭い、一度で免疫ができたとは判定されず再接種が必要になることも少なくありませんでした。また雑菌によって化膿したり別の伝染病がうつってしまったり、脳炎を発症したりすることもありました。
※明治20年代半ば、痘苗を牛に接種して牛から発生させた痘苗(再帰牛痘苗)を使った種痘が行われるようになりますが、その後も人伝による種痘は1910年頃まで続きました(添川正夫『日本痘苗史序説』)。
広瀬元恭『(新訂)牛痘奇法』京都大学附属図書館蔵

越前国地理全図[幕末期]

越前国地理全図(幕末期) 藩の公用として作成されたものではなく、私用として簡便に作成されたものと考えられます。幕末の頃の藩領を村ごとに色分けして表しています。
資料名:「越前国地理全図[幕末期]」松平文庫(福井県文書館保管)A0143-21196

図書館入り口の展示スペース:明治期の種痘接種証明書

1875年(明治8)の種痘接種証明書

片岡五郎兵衛家文書(福井県文書館寄託)A0027-10103  南居村(現福井市)のふたりの女の子(生後2か月、3か月)のもので、簡易な手書きの札ですが、証明書の役割を果たしています。
資料名:片岡五郎兵衛家文書(福井県文書館寄託)A0027-10103

明治10年代の種痘接種証明書

山室屋文書(福井県文書館蔵)B0035-00355・00356 松岡椚村(現永平寺町)の姉と弟の証明書で、種痘医、衛生委員の印が押されています。裏面には明治20年に2回目を受けた結果も記されています。
資料名:山室屋文書(福井県文書館蔵)B0035-(左)00355(右)00356

明治20年代の種痘接種証明書

矢尾真雄家文書(福井県文書館蔵)C0065-01304  春江村安沢(現坂井市)の男の子(2歳6か月)の証明書で、活版印刷の用紙に種痘医の印があり、「再度」の印から2回目を受けたことがわかります。
資料名:矢尾真雄家文書(福井県文書館蔵)C0065-01304

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