展示「へたうまー見て楽しむ歴史資料ー」
開催期間・場所 | 2024年8月30日(金)~2024年10月23日(水) 9:00~17:00 福井県文書館閲覧室(入館無料) |
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関連イベント | 9月28日(土)15:00~15:50 ※終了しました ゆるっトーク&ドロー「見て 描いて へたうま」▶申し込みforms |
関連イベント | お絵かきコーナー「みんなのへたうま」 会期中、無料で自由に参加できるお絵かきコーナーを設置します。 (1)お絵かきスペース(エントランス)(状況により順番をお待ちいただく場合があります) (2)(1)で描いた絵の展示用パネル(閲覧室内)(展示は任意です) |
概要 | 福井県文書館では、福井県に関する文書等(歴史資料)を閲覧することができます。文書とはいうものの、それらは文字で書かれるだけでなく時に絵で描かれ、視覚的に表現しようとされている場合もあります。 展示では、歴史資料に触れるきっかけづくりとして、当館や資料検索・閲覧システム「デジタルアーカイブ福井」で公開している資料の中から、視覚で直感的に楽しむことのできる「へたうま」※な絵を紹介します。 ※ 本展示では「決してうまいとはいえないものの、どこか魅力のある」という意で用いています。 |
目次
1. 展示ケース(入口)の展示
あったら怖いこんな橋
日野川に架かる大川橋(現在の南越前町鯖波に架かる聖橋)の絵図です。川下から川上を見上げた構図で、橋を横から描いています。ところが橋脚は、右に続いて真ん中も、そして左も斜め45度になっています。
(福井県立図書館(石倉家旧蔵)文書「大川橋略絵図」年未詳(当館蔵))
2. 展示ケース(奥)
明治時代の小学生が描いた絵
明治時代の小学生が尋常6年から高等1年(現在の小学校6年~中学校1年)にかけて描いた複数の絵の内の1枚です(七福神のえびすか)。中には「図画用撰定」の用紙に描かれた絵や、教科書でお手本を確認することができる絵もあります。図画の科目で描いたのでしょうか。
(松田三左衛門家文書「墨画(尋6年生-高等科1年)」明治42~43年(1909~1910)(当館蔵))
相撲の心髄
体を門に見立てた相撲の心髄です。肩を
(吉野屋文書「相撲力合之事(絵あり)」年未詳(当館蔵))
酒井家の正史に挟み込まれていた馬
(酒井家文庫(酒井家編年史料稿本)「(安驥最用抜書釘経之大事写 天正元年九月吉日 酒井家編年史料稿本花押及印章彙纂五に挟込)」年未詳(小浜市蔵):画像は館内のみ )
“さらし首”のスケッチ
福井藩による情報収集の一環として京都の現場で描かれ、福井に持ち来された足利氏木像
(松平文庫「文久三亥雑記」文久3年(1863)(当館保管) )
(参考)足利氏木像梟首事件
文久3年(1863)2月22日、徳川
「探珠法」と「騎龍子法」の図
(矢尾真雄家文書「家伝 吉雄派整骨図(写本、医学吉雄幸載、「青堂於塾写之」)万延2年(1861)(当館蔵))
教科書に挟み込まれていた馬の絵
明治時代の小学生(左とは別の小学生)が描いたと思われる馬の絵です。
明治43年(1910)の尋常小学校5年(現在の小学校5年)男子用の図画の教科書に挟み込まれていました。
(坪田仁兵衛家文書「尋常小学新定画帳 第五学年 男生用」明治43年(1910)(当館寄託):館内のみ)
縁起の良い夢
安政2年(1855)12月22日朝六つ時(午前6時頃)にみたという夢の図です。夢だけあって内容は理解しきれませんが、吉夢(縁起の良い夢)だったので描き残したようです。
(三上豊尚家文書「吉夢之図」安政2年(1855)(当館蔵) )
養蚕書『養蚕秘録』の写本/参考:『養蚕秘録』の刊本
享和3年(1803)に出版された『養蚕秘録』の明治時代の写本です。中巻は、とくに実務にかかわるためか挿絵も書き写しています。
左:(山田三郎兵衛家文書「養蚕秘録上巻・中巻・下巻(写本、挿絵を含む)」明治22年(1889)(当館蔵) )
右: (谷村文庫「養蚕秘録」享和3年(1803)(京都大学附属図書館蔵)) ※著者は上垣守国(うえがき・もりくに、但馬国養父(やぶ)郡蔵垣村(出石(いずし)藩領、現在の兵庫県養父市大屋町)の庄屋)※画像は「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」より
髪型「半甲 」の説明図
福井藩
(上左)松平文庫「福井藩役々勤務雑誌 地」大正4年(1915)(当館保管)
(上右)同「(福井藩諸組之由来御門御定書)」年未詳(当館保管)
(下)同「組々之由来」年未詳(当館保管)
(参考)「半甲」
持筒組(鉄砲隊)は結城秀康付の
松田三左衛門家文書「墨画(尋6年生-高等科1年)」より「薬缶と容器」
(松田三左衛門家文書「墨画(尋6年生-高等科1年)」より「薬缶と容器」)
3. 展示ケース上パネル
100人乗りの蒸気船
長さ38間(約69.1 m)、幅8間(約14.5 m)余、100人乗りというオランダの蒸気船です。嘉永6・7年(1853・1854)に来航したペリー艦隊の蒸気船と同じくらいの大きさです。(画像の公開不可)
(苗村家文書「(蘭船図解)」年未詳(滋賀大学経済学部附属史料館蔵:館内のみ公開))
明治時代の小学生が描いた「凧」
明治時代の小学生が描いた絵の内の1枚です。上は提出した清書のようで、日付(「一月廿三日」)と学年・名前(「尋六」「松田幸農」)が書き入れてあり、先生の講評らしき一文(「線をに筆力あるやうにかけよ」)も添えられています。
(松田三左衛門家文書「墨画(尋6年生-高等科1年)」明治42年~同43年(1909~1910)(当館蔵))
病気になった馬の治療法
馬医書(馬の医学書)です。馬の病気について、絵と文とをもって原因や症状、治療法を解説しています。
(桜川正浪家文書「馬事秘密書」年未詳(個人蔵:館内のみ公開))
劔神社のおみこし
劔神社(丹生郡越前町織田)の「御輿」です。明暦2年(1656)の千年院宥海という人物による同社の祭礼の定書(「神輿渡御諸使人次第順作法定書」)に描かれていました(これは昭和12年(1937)の同社の社家の子孫による写しです)。
(山内秋郎家文書「織田明神と社人(写本)」年未詳(当館蔵))
鶴包丁の図
幕府から拝領した「御鷹ノ鶴」(将軍の鷹が捕獲した鶴)をさばく儀式「鶴包丁」での人や物の配置図です(これは弘化4年(1847)2月19日の鶴包丁の図で、鶴は3日前の16日に拝領)。よくみると鶴と、包丁や箸らしき道具も描かれています。
(松平文庫「御座所御間所座配図」弘化3年(1846)(当館保管))
バケモノの正体は……
福井城下には、何か所か「
(松平文庫「温古集 二巻」年未詳(当館保管))
▶上:御泉水町の古い杉の大木のお話
福井城下の北東、御泉水町の相馬という藩士の屋敷に古い杉の大木がありました(現在の福井市宝永3丁目、養浩館庭園の南)。夜中になるといろんな妖怪が出るといい、怖い思いをしたという話もたびたび聞かれるため、みんな夜にそこを通ることを恐れていました。
小雨の降る闇夜、臆病な人が用事のために仕方なく、御泉水町を通ることになりました。謡をうたいながら恐る恐る歩いていると、思いがけず差していた傘が引っかかりました。引っ張っても引っ張ってもとれません。まるで誰かにつかまれているかのようです。
臆病な人は身の毛がよだち、全速力で逃げ帰りました。
朝になって傘をつかまれた場所へ行ってみると、御泉水屋敷の塀から木の枝が外へはみ出しており、そこに傘が引っかかっていました。それを見たその人は、自分の臆病さを恥じて前夜の体験を自分だけの秘密にしたそうです。
▶下:桜の馬場近くの三本松のお話
福井城下の南東、桜の馬場近くの三本松(現在の福井市手寄2丁目内)には、天狗や鶴瓶落としが出るという言い伝えがありました。
ひときわ寒い冬の夜のこと。蕎麦売(蕎麦の屋台)が三本松を通りかかると、蓑笠姿の侍体の者に「一膳くれ」と呼び止められました。蕎麦売は「よき客よ」と喜び、そばを温めます。2杯、3杯とおかわりする侍体の者がふと、うつむいたかと思うと「親父、うまい事じゃ」といいながら顔を上げます。それは侍体の者ではなく天狗の顔をしていました。蕎麦売は、お金も荷物も残したまま全速力で逃げ出します。天狗は蕎麦売がいなくなった屋台でのんびり、満腹になるまで食べ続け、手盛りで8杯平らげたそうです。
これは侍体の者による、三本松の言い伝えと天狗の面を利用した、蕎麦売を驚かせるためのいたずらでした。
明治時代の小学生が描いた「顔」
明治時代の小学生が描いた絵の内の1枚です。こちらは他の絵(「えびす」「凧」)と違ってかなり個性的ですが、教科書でお手本らしき絵を確認することができます(下)。
(松田三左衛門家文書「墨画(尋6年生-高等科1年)」明治42年~同43年(1909~1910)(当館蔵))
構図や髪形から、こちらがお手本にした絵と思われます。
(坪田仁兵衛家文書「高等小学毛筆画手本 男生用 第二学年甲種」明治38年(1905)(当館寄託:館内のみ))
4. その他パネル
福井城石垣の大岩
福井城三の丸にあった
大岩は石垣の2か所で利用されており、右は縦約2.4m×横約4.2m、左は縦約3.9mという大きさでした。もともとは神宮寺町(現在の福井市左内町・足羽1丁目・毛矢3丁目内)と石場町(同つくも1丁目・足羽1丁目内)との境にあり、慶長6~11年(1601~1606)の築城にあたって掘り出されたところ、清水が湧き出てきたそうです。
清水は井戸として整備され、その起源から「大岩清水」と呼ばれました(現在の「左内」交差点の南)。その水は
(松平文庫「温古集 五巻」年未詳(当館保管))
空念山
足羽山の南にあった「空念山」という小山(現在の福井市月見 2丁目にある福井赤十字病院の南、八幡山の北東麓か)の絵図です。右上に「当市」とあり、明治22年(1889)4月の市制施行後に描かれたようです。
昭和56年(1981)までは麓に東雲寺という浄土宗寺院がありました。五六豪雪で大破して当地には現存していませんが、本尊の木造阿弥陀如来坐像(県指定文化財)とともに足羽1丁目の安養寺境内へ移転し、存続しています。
(浄光寺文書「(月見町内字赤阪町 空念山 絵図)」年未詳(個人蔵))