テーマ展「福井藩士の住宅事情」

開催期間・場所2024年10月25日(金)~2024年12月18日(水)
9:00~17:00 福井県文書館閲覧室(入館無料)
関連イベント12月1日(日)15:00~15:50 ゆるっトーク「福井藩士の住宅事情」(福井県文書館研修室、ギャラリートーク形式にて、定員20名)▶申し込みforms
概要 福井城下に住む中級藩士は、その役職に応じて屋敷地が変わることがありました。城下外住まいの出世コースがあったり、あるいは役職に関係なく、藩の事情のために命令で屋敷地が変わったり、屋敷地の交換を願い出たりしていました。
 そうした悲喜こもごもが垣間見える福井藩士の住宅事情を資料から読み解きます。

テーマ展「福井藩士の住宅事情」展示風景

目次

  1. 福井藩士の家格と屋敷地 藩士の禄高と屋敷地面積の関係
  2. 転宅関連年表
  3. 屋敷地の様子は? 上級藩士「菅沼家」の間取り
  4. 屋敷地の様子は?上級藩士は別邸もあった
  5. オレたち転勤族 この役目を無事果たせば・・・
  6. 私たち入れ替われる? 屋敷替えにもさまざまな出来事が
  7. 火事で分かれる命運 武士の大事なものをなくすと重い処分に
  8. 幕末の出世人の転居 異例のペースでの役職異動・転居
  9. 私の屋敷はどこでしょう?


1. 福井藩士の家格と屋敷地:禄高と屋敷地面積の関係

 武士は家格が定まっており、中・下級藩士は、禄高に応じて屋敷地の面積が定められていました

格式役職など禄高屋敷地坪数
上士本多家国老府中(武生)2万石
高知席17家(ここから家老職(5名)、城代)4025石 ~1000石
高家2家(小禄だが別格扱い)
寄合席39家(中老・側御用人・大番頭など)1000石~350石、50人扶持
中士定坐番外席御供触頭・寺社奉行兼町奉行など450石~200石、25~20人扶持
番組物頭・御奉行など300石400
260~150石360
100石、切米・扶持方225
下士与力、御帳付96
小算切米・扶持方90
役人66
御坊主、忍之者55
※役職の役割については鈴木準道(1977)「福井藩士事典」より
※禄高と屋敷地面積については、「天災之部・御普請之部・屋敷之部」松平文庫・当館保管より

資料:禄高と屋敷地面積の規定書

資料:天災之部・御普請之部・屋敷之部

 屋敷に関する諸規定が書かれていたものです。展示箇所は禄高に応じて与えられる屋敷地面積の定めです。同じ禄高同士では、屋敷地面積を揃えて運用していたことがわかります。(□の朱書は取り消しを意味します。)
(「天災之部・御普請之部・屋敷之部」年未詳、A0143-01058松平文庫・当館保管)

資料:屋敷地広さの目安

資料:屋敷地広さの目安

 400坪は、福井県立図書館正面玄関前のロータリー部分全体、225坪はその半分程度の広さです。(国土地理院WEBサイトより)

2. 転宅関連年表

 福井城下の町割りに影響した出来事を年表にしました。

西暦(和暦)出来事
1645(正保2)10月:松平光通、福井藩を継ぎ、弟昌勝へ5万石(松岡藩)、昌親へ2万5000石(吉江藩)分知
1669(寛文9)大火後、侍屋敷を移転し侍屋敷跡地を菜園地とし、城之橋の寺町を城下東端に移転
1686(貞享3)貞享の半知(47万5280石→25万石)⇒城之橋、毛屋あたりが空き地などに
1708(宝永5)4月:新御泉水屋敷を造作
1721(享保6)松岡藩の松平昌平(宗昌)が福井藩主に
1731(享保16)毛屋への松岡藩士の移転が始まる
1739(元文4)10月:毛屋への藩士引っ越し終了
(この間、城下の火事の記録多数あり)
1855(安政2)明道館ができる(大谷半平(大館兵馬)の屋敷地を利用)
1857(安政4)金津奉行廃止(金津定番がおかれる)
1863(文久3)明道館、八軒町空き地(元鷹冷場)に移転
1863(文久3)水主頭、三国宿浦に移転
1864(元治元)12月:天狗党の乱
1864(元治元)明道館、足羽川近くの木蔵に移転
1869(明治2)5月:明道館、明新館と改称、城内に移転
1870(明治3)5月:武生騒動(武生本多家の家格問題で,民部省に越訴した旧家臣が謹慎処分をうける)
1870(明治3)8月:武生の本多興之輔及び家臣に福井城下居住を命じる
1870(明治3)10~11月:屋敷地返上など

※「福井県史 年表」などより

3. 屋敷地の様子は? 上級藩士「菅沼家」の間取り

  菅沼家は寄合席格で、もとは「山本」を名乗り、 1万石を超える知行でしたが、貞享の半知(1686年)以降、1千石となりました。
 代々同じ所に住んでいたのではなく、別の所に移り、後にまた元の場所に戻っていることが城下絵図から確認できます。

資料:上級藩士の邸宅の間取り

資料:上級藩士の邸宅の間取り

柳御門近く(現、裁判所付近)の知行千石の菅沼家の屋敷図です。南北28間(約59 m)、東西32.5間(約51 m)の約千坪の敷地がありました。北側が通りに面し、表御門があります。
(「菅沼御家絵図」1839年、A0206-00051菅沼家文書・当館保管)

資料:柳御門近くの菅沼家

資料:柳御門近くの菅沼家

 柳御門(現、裁判所付近)の側に915坪の屋敷地があり、詳細な間取り図が残されています。通りに面した建物の壁は奉公人が暮らす長屋などであったことがわかり、「福井城旧景」でも外観をうかがい知れます。
「福井城旧景」の「柳御門」、福井県立図書館蔵。一番右手が菅沼家)

資料:家相ノ図

資料:家相ノ図

 菅沼家に所蔵されている「家相ノ図」と、屋敷図に引かれている線から、家相を意識していたことがうかがえます。
(「家相ノ図」菅沼家文書・当館保管)

資料:菅沼家の屋敷地の変遷

資料:菅沼家の屋敷地の変遷

 屋敷地の各区画に誰が居住してきたかを、幕末ごろに調査したものです。通りに面した敷地を上段・下段に書き分けており、「今大本多」、「今明石」、「今大谷」、「今菅沼」のところに、菅沼(山本内蔵)家が住んでいたことがわかります。(紫矢印に「山本内蔵」あるいは「菅沼」の記載があります)
「(御家中転宅考」1831年~、A0143-00463 松平文庫・当館保管)

参考資料:菅沼家の各時期の城下絵図

資料:菅沼家の屋敷地変遷地図

4. 屋敷地の様子は? 上級藩士は別邸もあった

 上級藩士には、本丸近くの「上屋敷」(本宅)とは別に、郊外に「下屋敷」(別邸)をあてがわれている家もありました。例えば 「御家中屋敷地絵図」によれば、稲葉家(2175石)は約1200坪、本多家(1975石)は約1700坪の屋敷地が御舟町おふねちょう付近(現、照手てるて)にありました。

資料:稲葉家、本多家の下屋敷地

資料:稲葉家、本多家の下屋敷地

 両家の下屋敷の建物の間取りを示す「別宅図」が残されています。稲葉家の建物は51坪、本多家の建物は35坪であり、下屋敷の敷地の一部にそれらが建てられていたようです。比較できるように、左の屋敷地絵図の横に、両屋敷の建物の縮尺を揃えたそろえたものをで示しています。
(「御家中屋敷地絵図(中巻)」 松平文庫・当館保管より、 上:稲葉家下屋敷地、下:本多家下屋敷地

資料:稲葉家と本多家の下屋敷別宅の図

資料:大身の藩士には別宅もあった

 高知席の藩士には下屋敷を与えられた家もありました。 (現、照手)にあった、稲葉家(左)と本多家(右)の「別宅」の間取りです。敷地と建物の大きさを比べてみると、庭園が大きな面積を占めたことが推測できます。
(「眼毒焼鮒茶屋并外記方西丹羽之図面」 年未詳、福井市立郷土歴史博物館蔵)

5. オレたち転勤族:この役目を無事果たせば・・・

 中級藩士には、現場住まいが求められる役職がありました。藩主の御座船を預かる水主頭かこがしら(2人体制)や、加賀口御門を預かる御先物頭(16人体制の1人)などです。この異動は、例えるならば、官舎や社員寮に住みながら中央・地方の事務所間の異動を繰り返して役職が上がっていくような人事ルートだったようです。
 水主頭は、御舟町おふねちょう(現、照手てるて)にその2人の役宅がありました。次に異動するポストの一つとして、中級藩士では高位の役職となる御先物頭があります。その役宅の一つが加賀口御門近くにあり、異動があると水主頭の役宅から転出していたようです。

資料:水主頭の役宅の居住履歴

資料:水主頭の役宅の居住履歴

 城下の藩士屋敷の地番、歴代居住者の名前が書かれています。展示箇所は水主頭2名それぞれの役宅で、歴代の頭の名前が記されています。
(「御家中屋敷地絵図(上巻)」1852年~、A0143-00464 松平文庫・当館保管)

資料:水主頭かこがしらの役割とは

資料:水主頭の役割とは

・2人体制でそれぞれ組の者を10人預かる
・御座船を預かり、指揮する
・2階のある屋形船も預かっていた
・藩領の川の殺生取り締まり
・幕末の藩政改革で鉄砲組に編入される
(鈴木準道(1977)「福井藩士事典」より)

(御座船「六条丸」の図(福井市立郷土歴史博物館蔵「海浜巡視水陸路程図」の一部))


資料:加賀口御門近くの御先物頭役宅

資料:加賀口御門近くの御先物頭役宅

 加賀口御門(現、進明中学校付近)の南東部にある、門を警護する御先物頭の役宅です。「加賀口御門預り」の記載が見えます。
(「御家中屋敷地絵図(中巻)」1852年~、A0143-00465 松平文庫・当館保管)

資料:御先物頭の役割とは

資料:御先物頭の役割とは稲葉家、本多家の下屋敷地

・16人。各組の頭は20人を預かる
・御門警備(昼夜詰め切り)
  ・出入りの人の改め
  ・家老の出入り時の交通規制
・春~秋の間は夜回り
・加賀口御門の頭のポストは1人
(鈴木準道(1977)「福井藩士事典」より)
「福井城旧景」の「加賀口御門」(福井県立図書館蔵)左手奥の屋根のどれかが御先物頭の役宅)

6. 私たち入れ替われる? 屋敷替えにもさまざまな出来事が

お屋敷替えには今も昔もさまざまなトラブルがあったようです。 Q and A形式でトラブル事例を紹介します。
(「天災之部・御普請之部・屋敷之部」(松平文庫・当館保管)を参考に現代風にして作成)

お屋敷を変わるときにどうすればよいでしょうか?(多数)

入居したときの家財道具リストとこちらで照合しますので、それらは置いておき、付箋をつけてください。なお、畳・敷物も持ち出し禁止です。自分で植えた身長より低い庭木は切っておいてください。

転居するのですが、役宅を修理したローンが残っています。(水主頭・三岡:文政6年)

次の役任者とローンは折半してください。次の担当者が異動した場合も、その次の担当者と折半してください。

壊れた表塀を、補助金出ないから、自分で修理しましたよ。(堀左衛門:享保6年)

修理されたのはよいのですが、「見苦敷」(みぐるしい)状態のようなので、中古の材木を与えますので修理してください。
(ただし、今後はそういう補助はしませんので、自分で修理してください)

屋敷地をお互い便利なように交換できますか?(多数)

できます。ただし、役所に届け出てください。

解雇されちゃったんすけど、どうしたら良い?(匿名)

御暇下された(解雇)場合、すぐに担当者2名で家具・敷物・庭木石等を持ち出さないように点検に伺い、目録を作成します。

異動先に畳がないのですが?(嶋崎伝右衛門:文化3年)

すみません、倹約中のため畳が都合できません。たしか、あなたが独自にお建てになって、人に貸していた家屋敷がありますね。その畳を使ってください。

解雇だから出ていけなんて、せっかく自作した家なんです!(和田与兵衛の親類:天明8年)

ご自分で建てた建物だけはお持ち帰りいただけます。

やっぱりまた屋敷替えて(林源助:元文4年)

よほどの事情以外ダメです。去年替わったばかりでしょ。

資料:今も昔もかわらぬ借家トラブル

資料:今も昔もかわらぬ借家トラブル

 今でいう、官舎管理に関する役所のマニュアルです。様々な事例が書き残されています。展示部分は、「拝借銀」(ローン)を返済しないまま異動になったケースの対処が書かれています。
(「天災之部・御普請之部・屋敷之部」年未詳、A0143-01058松平文庫・当館保管)

7. 火事で分かれる命運 武士の大事なものをなくすと重い処分に

 藩士宅が火元となる火事が、「剝札」にいくつか記録されています。多くの場合、10日前後の「遠慮」(謹慎処分)となっていたようです。ただし、周囲に類焼した場合に謹慎期間が長くなったり、武士にとって大事なものを焼失させてしまうと、「閉門」の厳しい処断が下されたりしたようです。

1780
(安永9)
松原熊次郎
(150石)
・5月2日出火
・「持馬焼死之趣、不調法ニ付閉門」となり、 6月5日まで閉門
1817
(文化14)
三寺与右衛門(150石)・7月出火、遠慮(期間不明)
1856
(安政3)
永田喜四郎
(150石)
・9月20日出火、同月27日まで遠慮
1858
(安政5)
大橋金兵衛
(20石3人扶持)
・6月28日出火、7月6日まで遠慮
・7月8日再び出火「別段之御評議」で安陪又三郎の住む長屋に居候させる決定
・文久2年(1862)5月13日、「三岡石五郎揚屋敷」(由利公正の元屋敷)を割り当て
・元治元年(1864)4月5日、御用地になっていた水主頭屋敷跡をあてがわれる
1866
(慶応2)
富永半哉
(300石)
・11月(日不詳)出火、同月15日まで遠慮
1869
(明治2)
望月寛一
(200石)
・3月3日出火、類焼1件あり・11月まで遠慮(期間が長い)
1870
(明治3)
岡部長
(元1500石)
・1月24日出火、2月2日まで遠慮
・東京詰めとなった毛受洪の空き屋敷に 「引移」(これまでの屋敷地は御用地に)
→その後も元毛受屋敷に住んでいる模様
※「剝札」(松平文庫・当館保管)より作成

資料:屋敷が火事になったとき大変なので

1861
(文久元)
鈴木利平
(18石3人扶持)
・「町家続き」にて「火難等の節」気がかりのため、町人の勘左衛門の土地・家屋と交換してもらう願いが許可された

資料:武士の大事なものを焼失させると

資料:武士の大事なものを焼失させると

 失火を起こしても、10日前後の「遠慮」(謹慎)を命ぜられることが多い中、馬を焼失させてしまったことが「不調法」とされ、より厳しい1カ月の「閉門」処分を受けています。
(「剝札(下巻)」年未詳、A0143-00470 松平文庫・当館保管)


8. 幕末の出世人の転居 異例のペースでの役職異動・転居

 福井藩の役職は数年の任期で務めることが多かったのですが、動乱の江戸幕末期、中級藩士の人事もあわただしくなります。 榊原爻八こうはち(100石取)という藩士の動静に注目してみました。あわただしく役職を与えられ、それに伴って何度も転居していることがわかります。

1852
(嘉永5)
2月:家督を継ぐ(大番組に)10月:御小姓に
1853
(嘉永6)
6月:願い出て江戸に出立福井→江戸
1855
(安政2)
江戸御供詰に(参勤交代に同行)
1857
(安政4)
3月:福井・明道館にて修行するようお達し
6月:明道館学諭に。御書院番・御近衆に
江戸→福井
1858
(安政5)
1月:明道館の助幹事、西舎兼務に
12月:同、助訓導師、明道館・外塾用向に
12月:横井平四郎(正楠)が熊本に帰るとき同行
1859
(安政6)
6月:江戸御聞番役見習に(江戸長詰)
6月:太田御陣屋詰に(横浜)(御目付助)
5月:福井に戻る
福井→江戸→横浜
1860
(万延元)
4月:(太田陣屋の役を解かれる)
7月:御聞番に(江戸に「家内共引越」する旨お達し)
12月:祖母や母の体調がよくないので「家内共引越」は無くして欲しい旨の訴えが通る
横浜→江戸
1861
(文久元)
8月:内諾を得て、国元の祖母に会いに帰る
9月:福井で御時宜役に
江戸→福井
1862
(文久2)
4月:御徒頭に
8月:郡奉行に
1863
(文久3)
6月:制産方を兼務
8月:金津定番に(金津の役宅へ)
福井→金津
8月11日~9月16日:肥後へ出張
1864(元治元)2月:御留守物頭・御鷹方に(福井城下へ)
7月:(御鷹方は解かれる)
8月:御水主頭に(水主頭の役宅へ)
金津→福井城下
福井城下の水主頭役宅に
10月16日:長州征伐
1865
(慶応元)
4月:御使番役に(そのまま水主頭の役宅に住む)
10月:(春嶽の大坂行きに随伴するも、引き戻る)
2月2日:帰福
5月:水主頭役宅から転出
1866
(慶応2)
11月:御持物頭(→3年10月、小隊頭)5月:大坂へ出張
6月~10月:春嶽にお供して大坂出張

資料:激しく異動する幕末の藩士

資料1:神社明細帳の原簿

 藩士の経歴を載せた資料です。榊原爻八は、幕末の百石取りの藩士で、一般的な藩士よりも異動が多く、才覚を認められていたことがうかがえます。
(「士族」年未詳、A0143-00489 松平文庫・当館保管)


9. 私の屋敷はどこでしょう?

 文書館では、江戸時代の4つの時期の大型地図を展示しております。御来館いただけますと、それらの地図を見比べていただけます。幕末の著名な福井藩士の居宅の場所を探してみてください。

会場位置MAP

会場_文書館閲覧室