松平文庫テーマ展46「喧嘩・切腹・かたき討ち」

開催期間・場所2023年10月27日(金)~12月20日(水)
9:00~17:00 福井県文書館閲覧室(入館無料)
関連イベント11月26日(日)15:00~16:00 ゆるっトーク「ある福井藩士家の没落再興ものがたり」

松平文庫テーマ展46ポスター 戦国の乱世が終わり、天下泰平が訪れた江戸時代。そんな時代でも、武士は刀で問題の解決を図ることがありました。彼らは、太平の世に生きながら、なぜ刀で人を、時には自分を斬ることになったのでしょうか。展示では、越前・若狭を舞台にした武士の喧嘩・切腹・かたき討ちを紹介します。

目次


1-1. 1669年 喧嘩→切腹(指腹さしばら )→・・・

国事叢記 三 寛文9年(1669)正月、金津(現あわら市)で喧嘩がありました。三国目付が “指腹” を切るも金津郡代は切腹せず、目付の家族が福井から金津へ行き、双方の親類も早馬で金津に駆け付ける騒動になりました。
 同12年のことともいわれています。
資料:「国事叢記こくじそうき 三(寛文~貞享3)」A0143-01186 松平文庫;当館保管)……弘化3年(1846)、田川清介(纓)編纂。
 藩命によって編纂された福井藩の歴史書です。編纂者は世譜掛田川清介で、藩士の家に伝来する二書を比較、校合して、この一書にまとめました。

1-2. 1669年 喧嘩→切腹(指腹)→かたき討ち

南越雑話 上 「国事叢記」は “駆け付けた” で終わっていますが、実は駆け付けた後、そこで斬り合いが、かたき討ちがありました。
資料:「南越雑話なんえつざつわ 上」A0143-02066 松平文庫;当館保管)……上は寛延元年(1748)、村田氏純(氏春)著。中は明和9年(1772)、氏純の実子氏暢著。下は安永10年(1781)、氏純の養子氏章著。
 福井藩や越前松平家に関する逸話集です。藩士村田家の父と子によって書き継がれました。「南越雑話なんえつざつわ 」は福井県郷土誌懇談会の会誌『若越郷土研究』に翻刻と現代語訳が掲載されています。

1-解説 腹を切るから腹を切れ

 寛文9年(1669)正月、金津で喧嘩がありました。金津郡代の配下の足軽が三国目付に無礼を働いた、それが喧嘩の始まりです。目付がそのことを郡代に届け出ると、郡代はすぐに足軽を処分して目付に謝罪しました。ところが目付は足軽を成敗しない郡代に怒りを積もらせ、腹を切る、そして首を郡代の元へ送らせる、“指腹”を決断します。
三国目付の“指腹”
 目付は、下男を呼び寄せて「腹を切るので、首を斬って器に入れ、郡代の元へ送り届けよ」と命じました。下男は驚き、なんとか思いとどまらせようとしますが、目付は聞き入れることなく腹を切りました。下男は仕方なく、命じられたとおり、首を郡代の元へと送り届けます。
 目付の首をみた郡代は、驚きながらも「首を差し出された上は仕方がない」と言い、嫡子を福井へ遣わせました。切腹の場に立ち会い、最期を見届ける、検使の派遣を要請したのです。
兄と弟のかたき討ち
 福井には目付の兄と弟、そして郡代の婿がいました。兄は目付と仲たがいしていましたが、「こればかりは兄弟のよしみ、避けては通れぬ」と弟を連れて金津へと向かいます。婿も訳あって郡代と絶縁していましたが、こちらも急いで金津へと向かっていきました。婿は途中、長崎(現在の坂井市)で兄弟を追い越し、兄弟が来ることを郡代に伝えます。そうして今か今かと待ち構えていたところに兄弟がやってきました。
 兄弟は座敷へと通され、そこで郡代と対面しました。兄は一通り挨拶を終えると、「弟が思い至らなかったせいで、ご苦労をおかけしたと承り、委細お聞かせいただきたく、参上しました」と言い、郡代に顛末を語らせます。郡代が語り終えると、今度は「弟も連れて参っておりますので、ご苦労ながら今一度、弟にお話しくだされ」と弟を座敷に呼び込みます。
 再び郡代が語り始め、話が半ばにさしかかったその時、兄は目の前にあった火鉢を押しのけ、「兄弟のことなれば、なんにせよ堪忍しておけぬ」と郡代に切りかかりました。郡代も「心得たり」と隙を縫って兄をえぐります。ふたりは重なり合って息絶えました。
 兄は弟にすぐに引き上げるよう、前もって指示していました。最期を見届けた弟は、そばにあった燭台を踏み消して座敷を出ていきました。そこに、勝手口に控えていた婿と郡代の次男が躍り出ます。

 明かりが消えた暗闇の中、斬り合いの末に弟はふたりに討ち止められました。

2-1. 1768年 口論→刃傷→切腹

浜名鈴木刃傷一件 1/2浜名鈴木刃傷一件 2/2 明和5年(1768)6月5日、小浜で同い年の部屋住み(家督前)と藩士とが口論から刃傷に及び、翌6日に部屋住みが切腹する「刃傷一件」がありました。
資料:「雲浜厳秘録 附浜名鈴木刃傷一件はまなすずきにんじょういっけんX0020-00208 京都大学文学部閲覧室文書(京都大学文学研究科図書館蔵)※複製)……大正5年(1916)、中田顕蔵書写
「浜名」は小浜藩士浜名家の部屋住み浜名多賀丞、「鈴木」は藩士鈴木吉之助、その口論から刃傷、そして切腹までの記録です。
『福井県文書館研究紀要』第17号に翻刻が掲載されています。

2-解説 同い年の部屋住みと藩士

 明和5年(1768)6月5日、小浜藩士浜名家の部屋住み多賀丞(16歳)は、夕食後に同じ部屋住みの友人宅を訪れていました。
 その日は、夕方から夜にかけて藩主酒井忠貫ただつらが藩士の砲術を観覧するため、藩士たちも見物に集まっていました。友人宅で話をしていた多賀丞は、自分も砲術を見に行こうと友人宅を辞去します。
 多賀丞が友人宅を出て歩いていると、門前で立ち話をするふたりの藩士がいました。同い年の鈴木吉之助と坂道之進です。
 おや?吉之助は刀も脇差も差していません。
部屋住みの武士と無刀の藩士
 多賀丞は吉之助が無刀と見受け、「武士が無刀で門前へ出るとは、どういうおつもりか」と意見しました。すると吉之助は「貴様のような未熟な者に脇差はいらん。無刀でも苦しゅうない」と挑発で返してきました。多賀丞は「それは、自分をあなどっておられるのか」と問いただしますが、吉之助は「貴様などにたやすく切られるような拙者ではない。切れるものなら切って見せよ」と挑発を重ねて取り合おうとしません。
 そんな吉之助に多賀丞は、「ならば切るべし」と言い、そのまま抜き打ちに切りかかりました。
多賀丞の一の太刀、二の太刀
 間合いもあってか、その刃は切っ先が外れ、吉之助に薄手を負わせただけでした。多賀丞に切りかかられた吉之助は、押さえ込もうとしたのでしょうか、多賀丞に寄りかかろうとします。多賀丞も踏み込み、諸手で切り下げました。
 肩先から胸のあたりまで切り込まれた吉之助は、そのまま倒れて事切れました。多賀丞は刀を納めると、吉之助と立ち話をしていた道之進と一緒に自宅まで行き、門前で道之進に「これまで心安くお付き合いくださり、かたじけなく存じます」と一礼を述べ、家の中に入っていきました。
 多賀丞は翌6日、切腹を仰せ付けられ、自宅で切腹しました。「16歳ながら見事なる最期」だったそうです。

3-1. 174X年 切腹(詰腹つめばら

福井城の今昔 延享年間(1744~1748)、江戸で失態を演じた甥が帰国後に伯父に詰腹を切らされる騒動がありました。
資料:「福井城の今昔 七」……左:庭本文庫(庭本雅夫書写)、右:黒田道珍旧蔵書(黒田道珍書写);越前市中央図書館蔵
 福井新聞の記者森恒救つねのりが同紙に連載していた記事の書写本です(当時の新聞は完存せず)。「福井城の今昔」は『福井藩史話』上・下として刊行されています。なお、「福井城の今昔」『福井藩史話』で又左衛門は「又右衛門」と表記されています。

3-2. 1747年 「不所存者ふしょぞんもの力丸りきまる又左衛門またざえもん

剥札 この “詰腹つめばら 騒動” の真偽のほどはわかりません。ただ、延享4年(1747)正月21日に当時100石取りだった伯父が「知行御取上ケ」になり、新たに25石5人扶持を下されて「逼塞ひっそく 」を仰せ付けられていました。その理由の中に「力丸又左衛門不所存者ニ付致義絶候」とあります。
資料:「剥札」A0143-00470松平文庫(当館保管)
 歴代福井藩士(士分)の人事記録です。一人ひとりの情報は短冊に書きまとめられており、短冊を貼ったり剥がしたりしながら管理していたようです。

3-3. 1747年 逼塞、御叱おしかり御国立退おくにたちのき

諸役人并町在御扶持人姓名 (十)知行減切 伯父が「知行御取上ケ」の上「逼塞」を仰せ付けられたその日、縁家の千本長右衛門も「力丸又左衛門義絶之義」が原因で「御叱」を仰せ付けられ、当の甥は「御暇」を下されて「御国立退」を仰せ付けられていました。 “詰腹” ?「御国立退」?その実はいったい?
資料:「諸役人并町在御扶持人姓名 (十)知行減切」A0143-01005松平文庫(当館保管)
 福井藩の御記録方が編纂した藩の諸役人や御扶持人の人員記録です。13冊で一組になっています。

3-解説 伯父と甥、涙の詰腹騒動

 延享年間(1744~1748)のこと。福井藩士力丸又左衛門が、江戸詰中に若気の誤りから屋敷の門限を破る失態を演じてしまいました。
 江戸では同僚に取り成してもらい、表沙汰にはならなかったのですが、話はたちまち知れ渡っていきました。江戸から遠く離れたここ福井でも藩士たちの笑い話となり、ついに伯父・仙石庄右衛門の知るところとなります。伯父は話を聞いたその日から「帰国の上は目に物見せん」と息巻いていました。
切る、切らないで押し問答
 伯父が江戸でのことを知るとは夢にも思わず、甥・又左衛門は久方ぶりに顔を見せて喜ばせようと帰国します。ところが、一番に会いに来ると思っていた伯父が、一向に姿を見せません。「それではこちらから挨拶に参ろう。それも伯父への礼儀であろう」と思っていたところに「又左衛門、在宅ならば面会すべし」。伯父がやってきました。まずは挨拶を交わして無沙汰を詫びたものの、伯父は苦り切って甥の顔を眺めるばかりです。
 やがて、伯父が切り出しました。「遠く離れた福井にいても、そなたの不行跡、不調法の数々は、すでに聞き及んでおる。いまさら隠し立ては許さぬ。秀康公の世に千石の高禄を頂戴した力丸の家名は、そなたの不心得一つで汚されたのだ。伯父庄右衛門、先祖にかわって武士の一分を立てて遣わす。すみやかに覚悟すべし」。
 伯父に切腹を促された甥は「ご意見はもっとも至極です。しかしながら、すでに事なくおさまったのです。今日になって切腹するなど犬死です。断じて切腹はいたしませぬ」と答えて断固拒否します。
 すると伯父は、いきり立って「そなたの不行跡、不調法は、あるいは不心得として受け入れよう。しかし、事があらわになったとあれば、切腹して申し訳を立てるのが武士であろう。おめおめと命を惜しみ、役付へ詫び入るなど、武士としてあるまじきこと。議論は無益。人間は刀掛ではない。この伯父の前で見事腹を切るべし」と迫ります。
 どうしても腹を切りたくない甥は、あれやこれやと弁解につとめますが、伯父は一向に聞き入れません。そして「おくれたるか又左衛門、そうまでして切らぬというのであれば、伯父の刀で成敗すべし」と刀を抜こうとします。
 甥はついに「もはやこれまでか」と観念し、ハラハラと涙をこぼして小刀を腹に突き立てました。憎む気持ちはありません。伯父もまた、こぼれる涙を振り払い、甥の首を目がけて刀を振り落としました。

4-1. 1871年 かたき討ち(追跡・探索)

先君敵討之義につき書状等 1/2先君敵討之義につき書状等 2/2 明治4年(1871)11月19・20の両日、二人組の討手が、北国街道を南下しながら、各地でかたきを探し回っていました。
河地文庫 (金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)※複製(同目録PDF))
“先君“ 本多政均まさちかを暗殺された加賀本多家の同志による、かたき討ちの優先順位の合議書や書状など、あわせて5点が合綴がってつされています。

4-解説 少属を付け狙う二人組

18日、金沢
 明治4年(1871)11月18日、芝木喜内と藤江松三郎というふたりが、金沢県少属多賀賢三郎を追って金沢を発ちました。少属が出張で大坂へ向かったという情報をつかんでから2日が過ぎていました。この日は夜を徹して西進します。

19日、大聖寺~金津~五本~長崎~森田
 翌朝、大聖寺(現在の石川県加賀市)までやってきたふたりは、そこで少属の目撃情報を入手しました。そして、そのまま金津(現在のあわら市)、五本、長崎(ともに現在の坂井市)と南下しながら、行方を尋ね歩いていきます。
 この2年前、金沢城二ノ丸御殿で金沢藩執政(旧加賀藩年寄)本多政均が暗殺されました。ふたりはその家臣で、少属は政均の暗殺に関与していたのです。
 金津以降、かたきである少属の情報は途絶え、ふたりは「どうすればよいであろうか」と案じつつ歩を進めていました。そのような中、森田(現福井市)で「風体相違なき」という目撃情報を入手し、さらに「丸岡県へ行くと言っていた」という話も耳にします。大聖寺から約30km、少属の行方を見失いかけていたふたりは、「これぞ天よりのおさずけ」と安堵します。そして、この日はそのまま、森田に宿泊しました。
20日、福井
 翌朝、今度は福井に移動して情報を収集していきます。その中で「多分、山町の莨屋旅館に止宿している」という有力な情報を入手し、ついに宿の見当がつきました。少属まであと一歩です。ふたりは喜びながら「じっくりと見定めて本望を達しなければ」「それもそうだが、23日までは見合わせかな」と話し合い、かたき討ちへの期待をにじませていきました。
 この後、ふたりは24日に長浜町(現在の滋賀県長浜市)でかたきを討ちます。

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会場位置MAP

会場_文書館閲覧室