常設展示:古文書

令和6年12月20日(金)~令和7年3月9日(日)

太陰暦から太陽暦へ

1872年(明治5)11月20日「(太陽暦頒行ニ付足羽県布達)」
玉川区有文書 D0076-00147

 明治5年(1872)11月9日、太陰暦(旧暦)を廃し、太陽暦(新暦)を採用する旨の詔書が発せられました。旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とすること、1年を365日とし、それを12月に分け、4年毎に閏年をおくこと、1日を24時間とすること、大の月と小の月は毎年変えないことなどが定められました。


令和6年10月25日(金)~12月18日(水)

奉公人請状

1848年(嘉永元)「奉公人請状之事」
山田三郎兵衛家文書 I0011-00339

 「奉公人請状」は、奉公人の身元を保証する江戸時代の証文です。現代とは逆で、雇われる側(身元保証人)が雇い主へ奉公の期限・給金・病気時の請け人の責任などを記入して提出しました。この資料には休日のことも書かれており、当時の労働条件がよくわかります。


令和6年8月30日(金)~10月23日(水)

熊の分配

1820年(文政3)「双方取替申済口証文之事(熊出入ニ付取替済口証文)」
飯田忠光家文書 G0013-00040

 飯田忠光家は代々、次郎兵衛を称し、西角間村(今立郡池田町)の庄屋を勤めていました。この資料は、西角間・東角間・定方三か村の惣分山(共有山)で仕留めた熊の分配をめぐり起こった争論を、次郎兵衛が挨拶人(仲裁人)となり済口(和解)とした際の証文です。


令和6年2月23日(金)~4月7日(水)

口上書之覚1口上書之覚2

1694年(元禄7)「口上書之覚(笹谷村市郎右衛門書置)」
岩堀健彦家文書 D0001-00024

 丹生郡笹谷村(福井市)の市郎右衛門が婿入りする実子に宛てた書置です。「朝寝をすると人から笑われる」「義父母より先に寝たり遅く起きてはならない」「長茶・長煙草・長咄などをしないこと」など、入り婿が気遣うべきことが書かれています。


令和5年12月22日(金)~令和6年2月21日(水)

茶代渡証文

1705年(宝永2)「相定申母茶之代証文之事(母隠居ニ付茶代渡証文)」
伊藤三郎左衛門家文書 I0058-00022

 これは「茶代」という名目の母の隠居料の証文で、奥越地域において江戸時代に多くみられた習慣です。母の生活費を兄弟3人それぞれが所有する田畑から米を出し合っています。また年貢諸役についても分担していたことがわかります。


令和5年10月27日(金)~12月20日(水)

鯖江藩貸付

1871年(明治4)「証(鯖江藩貸付金返済方証文、2346両余)」
久保文苗家文書 C0064-00022

 久保家は坂井郡鷲塚村(坂井市春江町)の豪農で、村内だけで100石前後の高を有し、江戸後期には商業・金融活動を含む多角的な経営を行っていました。福井藩・丸岡藩・勝山藩・鯖江藩にも多額の貸付けを行っていて、これは鯖江藩の調達金に関する資料です。


令和5年8月24日(金)~10月25日(水)

魚問屋開店1魚問屋開店2

1859年(安政6)「(魚問屋開店ニ付歎願書、前欠)」
池上芳三家文書(当館蔵) E0112-00188

 池上家は中世には朝倉家に仕えて魚問屋を務めていたといわれ、近世には府中領主本多家の御用魚問屋で御肴屋忠左衛門と称していました。御肴屋は一時休業後、1863年(文久3)ごろから再開しましたが、資料はその再開にあたっての嘆願書です。


令和5年4月15日(土)~6月21日(水)

野尻銅山

1773年(安永2)「乍恐奉願口上之覚(野尻銅山悪水ニ付運上延納願)」
岩崎左近家文書(当館蔵) Q0064-50003-004

 野尻銅山(現おおい町)は流出した悪水の被害のため明和8年(1771)に休山しました。この資料は、野尻村とその川上の村々が佐分利川の鮭や鮎が不漁になったため、運上(雑税)の延納を願い出たもので、休山後も被害が続いていたことがわかります。


令和5年2月2月17日(金)~4月9日(日)

藍玉

1823年(文政6)乍恐口上書を以奉願上候(藍玉代銀延納ニ付願書)
吉川充雄家文書(当館蔵) C0037-00069

 吉川家は金津町の旧家で、紺屋を営み、町役を務めていました。福井藩は文政5年(1822)藍玉仕法(方策)を行い、藩が独占的に販売する藍玉の代金支払いを年内(7月・12月の2回)としましたが、これはその延期を求めたものです。


令和4年12月23日(金)~令和5年2月15日(水)

参宮のみやけ

年未詳「参宮之みやけ」
勝見宗左衛門家文書(当館蔵) B0037-00297

 元来「みやげ」とは寺社詣でをした際に神仏の恩恵を分かち合うために、持ち帰ったお札や縁起物を地元の人々に配るというものでした。次第に門前には市が発達し、扇子や紙たばこ入れ、葛粉、志ゆす(数珠)などが販売されるようになりました。


令和4年10月28日(金)~12月21日(水)

寺送り状之事

1820年(文政3)「寺送り状之事(加藤理右衛門弟敦賀へ養子に参るニ付)」
加藤竹雄家文書 A0052-01079

 江戸時代、人々が奉公や結婚などの理由で他の土地に移る際には、本資料のような「寺送り状」を檀那寺に発行してもらう必要がありました。移転する者の名前・続柄・宗派・移転の理由などを記して新しい檀那寺に送りました。